針小棒大に報道する大マスコミの謀略に踊る国民。
鉢呂経産大臣が暴言により辞任に追い込まれた、として大マスコミは喜びの声を上げている。最終登板としていた野田政権も「この程度の詰まらない政権だゾ」と国民に報じている。
しかし福一原発事故周辺が「死の街だった」というのが間違いだろうか。それとも「死の街」だという表現により傷つく人たちがそこに暮らしているのだろうか。東電の福一原発事故の当事者責任は東電にある。もちろん原発行政を推進してきた国家にも責任を免れ得ない。
しかし鉢呂経産大臣が「再び市の街を作ってはならない」という意味で言ったのなら、脱原発を唱える鉢呂氏の発言は暴言でも何でもない。それを「死の街とはケシカラン」と怒り狂ったのは大マスコミではなかったのではないか。彼らは東電の下請けよろしく原発推進提灯記事を書き続けてきた。テレビで原発の怖さを正確に科学的に報じることもなく「安全神話」のみを報じ続けてきたのではなかったか。そして今も「原発がなければ電気は不足する」とのプロパガンダを繰り返している。
大マスコミこそが原発事故の責任を問われるべきだ。鉢呂経産大臣は原発依存をやめるべきと発言したため、失言でもない言葉尻を捉えて大マスコミが針小棒大に騒いだに過ぎない。それに乗って原発を容認する業界圧力により野田首相が鉢呂経産大臣の首を切ったのが真相だろう。次の経産大臣が誰になり原発にどのような態度表明するのか、を注視しなければならない。
それにつけてもテレビに出演する評論家が揃いに揃って発・送電分離による電力事業の自由化を唱えないのはどうしてだろうか。そこにまで電気事業界の圧力が及んでいるとしたら、マスメディアの在り方も根本から議論しなければ、この国の報道の自由はいつまでたっても担保されないことになる。