この余りに言葉のかろき政治家たち。

 前夜に芝居じみた深刻な顔で首相が「脱原発依存」と言葉を発したかと思ったら、翌日には能天気な笑みを浮かべた官房長官が「あれは原発を止めると言ったのではない」と否定してみせる。文科大臣までも15日の閣議後の発言が「もんじゅ開発停止」と受け止められる発言を記者たちに指摘されると、その夕刻には「もんじゅを止めるとは言っていない」と態度を豹変させた。


 


 この国の根本にかかわる問題で、政治家たちのこの余りに軽き言葉は何だろうか。漫才師の人を笑わせる手法に「乗り突っ込み」というのがある。まさしく「乗り突っ込み」を政治家たちも始めたのかと耳を疑ったが、彼らはいたって本気だ。いやそもそも永田町は演芸場の舞台ではない。この国と国民の行く末を議論する場だ。


 しかし、漫才師や芸人やスポーツ選手や俳優など人気商売人が簡単に政治家になれるのが民主主義だ。国民にとって高邁な理念や政治哲学など問題ではなく、人気の有無だけが「政治家」の要素となって久しい。この程度の国民にしてこの程度の政治家たち、ということなのだろうか。


 


 政治選択は国民がすべて正しい、との前提に立脚するかのような世論調査結果や風にそよぐ葦のような世論を金科玉条のように掲げる大手マスコミも問題だ。国民世論は時として間違うこともある。ことに大手マスコミが団結して雨霰と世論操作する偽報道を垂れ流し世論が誘導された場合は間違いなくそうなる。


 戦前の「大正デモクラシー」がいつの間にか「軍国主義」へと世論が変貌した仕掛けを検証してみることだ。そこに介在して大きな役割を果たしたのは間違いなく大手マスコミだ。国民は大手マスコミにより簡単に誘導される。現代では特にテレビメディアの影響力は強大だ。そのテレビを支配しているのは誰か、その仕掛けの大本を握っているのは誰か、果たしてテレビ局の運営は民主的なのか。そこを問題にしなくてメディア論を語っても何ら意味のないことだ。


 


 首相が6時から記者会見をする、との触れ込みからテレビを視聴したが中身のない演芸だった。翌日には「脱原発」発言は原発を止めることではない、と官房長官によって否定される程度の発言だったと証明された。首相が「命がけの訴え」をしたのなら、激怒して官房長官を直ちに罷免しなければならない。しかし彼はそうしなかった。彼は内閣どころか女房役の官房長官すらハンドリングできないのだ。


 しかしそれは菅氏が悪いのではない、彼が非力に過ぎないだけだ。電力会社はこの国の根幹を握っている。地域独占というカネの湧き出る泉を手に入れて恣にこの国をハンドリングしてきた。経産官僚はゴマンと天下り先を世話してもらう代わりに電力会社の下請け機関になっている。政治家も政治献金と集票力の誇示により、多くの者が電力会社の御用聞きになっている。経済団体も団体を構成する多くの会社が電力会社から言い値で仕事を請負い、言い値で原材料を購入してもらっている。すべての頂点に電力会社が君臨している構図がある限り、自然エネルギーの普及をと政府がいかに太鼓を叩き笛を吹いても「サンシャイン計画」の二の舞だろう、と最初から絶望的な思いになる。少なくとも「地域独占」という現在の電力供給の仕組みを変えない限り、すべては画餅に帰するだろうと予測するしかない。すでに経団連会長などは「原発を止めるなどとバカなことは言わないことだ」とバカな発言をしている。


 


 菅氏は首相としての体をなしていない。椅子にしがみつく者は取り巻きにより簡単に籠絡されてしまう。官房長官が椅子さえ守れば首相は官房長官が彼の発言を訂正しても文句を言わない。自由主義経済を騙し国民を騙すような「東電スキーム」を発表しても官僚の広報機関に堕している大手マスコミは一切の論評をしない。そうして「地域独占」は存続していく、すべての負担は国民に背負わされ、電力一家はわが世の春を謳歌し続けることになった。--これって変ではないか。



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