小沢総理を望む。

 政治家が軒並み小粒になり、要領の良い会社員に見えてきた昨今、骨のある政治家らしい政治家は小沢氏しか見当たらない。大手マスコミは彼のそうした政治的手腕に恐れをなし、トコトン「政治とカネ」プロパガンダで追いつめてきた。国民も集中豪雨のような「虚偽・捏造ないまぜ」の検察垂れ流しのリーク情報をあらゆるメディアを通じて降らせ続けた。それであたかも「真実」であるかのような錯覚を覚えさせ「小沢氏=巨悪」とのイメージ造りに成功した。しかし、これが犯罪でなくて何だろうか。こうした蛮行が現代日本で許されることだろうか。その結果として検察官僚下請けのような愚かな政治家たちまで「政治とカネ」プロパガンダを小沢氏を批判する「道具」として使い、政権与党の幹部たちが「党員資格停止」という愚行を犯してしまった。


 


 小沢氏の何が問題だというのだ。「期ズレ」が問題なのか。証拠のない虚偽証言の前歴を持つ建設会社元社長の証言だけを「状況証拠」として小沢氏の元秘書を違法献金疑惑で「カネまみれ」との印象操作に検察・裁判官たち司法当局は法治国家日本としてあるまじき公判挺を続けている。しかも当初起訴した訴因とは異なる「訴因変更」という禁じてまで使って。


 それに対してこの国の法律学者や憲法学者から批判が湧きあがらないのはなぜだろうか。必要とされる時に必要とされるコメントを発表しない叡智は存在していないのと同じことだ。この国の法学者は「検審起訴」の違法性や憲法違反の可能性に関してスルーして、何を研究しているのだろうか。何を学問しているのか、彼らの存在意義に疑義を覚える。


 


 小沢氏起訴に実態はない、と解り切った狂言芝居を「既定の事実」として国民は一幕物の見物として観劇している。これほど恐ろしい現実があるだろうか。あなたが小沢氏と同じ立場に立たされて、それでも理念を失わず初志貫徹できるだろうか。検察官僚とその機関誌のような大手マスコミの集中豪雨的なプロパガンダに耐えて冷静な立場を堅持できるだろうか。


 ある首相は自分の理解の範囲を超える現実に直面すると周囲の者を怒鳴り散らすという。何かというと「自分」をカッコ良く見せたいと舞台造りを周囲の者に命じてパフォーマンスに興じるという。それがどのような結果をもたらそうとお構いなしに行う愚かに首相を比較対象にしては小沢氏に対して失礼かもしれないが、その首相を半年前には大手マスコミは「首相をコロコロ代えるのは良くない」というバカげた理由を大宣伝して応援していたのだ。


 


 人は自分の心眼で相手を評価する。だから「類は類を以て集まる」のだ。大手マスコミの心眼に適ったのが菅氏だったのも頷ける。だから平気で小沢氏を「事実と確認」していない捏造疑惑でも検察から出た情報であれば拡声器で国民に報じるのだ。この国の大手マスコミの程度がいかに低俗か、戦前・戦中の「大本営発表」で国民を死地へ追いやった反省は終戦直後の「一億総懺悔」で終わったとでも思っているのだろうか。


 社会の木鐸として常に「平衡感覚」を研ぎ澄まさなければならない、という自覚のない者はジャーナリストを名乗ってはならない。それは記者ではなくトロッコだ。時の権勢に押し流されるマスコミ屋に過ぎない。少しは恥を知るべきだろう。


 


 小沢氏がグループの仲間と何を食ったかが問題ではない。小沢氏が何を考え、何をやろうとしているのかを問題とすべきだ。そして彼の2009マニフェストに具現化された理念を政治家として実現するなら前回総選挙で国民が託した国民の願いがかなうことになる。第二自民党と化した菅政権は断じて民主党政権ではない。少なくとも2009マニフェストで国民が託した政権交代後の政権ではない。彼らは官僚の走狗と化してしまった。この経済情勢で消費税増税を議論するとはマトモな経済学者なら決して進言しないことだ。狂気の沙汰としか言いようのないことを財務省官僚の下請け政権は行おうとしている。国家と国民のために一日も早い小沢総理の実現を望む。



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