幼女殺害事件の闇。
熊本県のショッピングセンターで3歳の幼女が殺害され遺棄された。容疑者は20歳の大学生で介護福祉を学んでいたという。
夕刻の七時ごろ家族でショッピングセンターに買い物に来ていた幼女はレジをしていた両親に「トイレに行ってくる」といって離れたのが最後の姿だった。
容疑者は一昨年の11月以降大学に来ていなかったようだ。評論家は容疑者の精神的発達の未熟さをあげているが、いずれにせよ殺害された幼女の御親族の悲しみは察するに余りある。
こうした事件が起こると弁護する人たちは「精神鑑定」をすぐに請求して、通常の精神状態ではなかった、と主張するのが紋切り型だ。しかし、そもそも精神的に正常な人が人を殺害するだろうか。正常な判断を持つ者が幼女殺害を行うだろうか。
ほとんど無抵抗な幼い生命を奪う行為は卑怯そのものだ。殺人は殺人でしかなく、いかなる精神状態であれ、殺人に変わりないと考える。さもなくば異常な精神状態の者を社会に放置している方が問題ではないだろうか。殺される方に殺害者を選ぶことは出来ないのだ。
奪われた命の重さを考え、殺害された者の人権を考えると、殺害者に精神状況による情状酌量の余地は存在しない。殺人の場合は精神鑑定をする必要はなく、おしなべて健常者と同一の刑法で裁くべきだ。
繰り返すが、殺人を犯す者が正常な精神状態であろうはずがない。正常な精神状態で殺人を犯すのは「殺人請負人」か「ヒットマン」だろう。いずれにせよ殺された人に自分を殺す者を選別することは出来なかったはずだ。殺され奪われた命は世界にたった一つのかけがえのない大切なものだ。殺された人の人権こそ考えよう。