方便と真理とは異なる。
TBSが英語しか使わない幼稚園を「国際人の養成」として紹介していた。園児は自然に英語を使いだすとして賛辞を浴びせていたが、なんとも馬鹿げたことだ。
幼稚園でいかに英語を話せても、普通の日本の環境で国内の小学校へ進学すれば、たちどころに英語を忘れてしまう。それが子供の成長として自然なのだ。
英語を日本の小学校では高学年から教えだしたと聞いた。馬鹿げたことだと思わざるを得ない。英語を話せば「是」とする企業が出てきて、楽天やユニクロでは英語しか使わないらしい。
何のつもりなのか、経営者の考えを聞かなければならないが、馬鹿げたことだと思わざるを得ない。そこが英・米国ならそうすべきだろう。そこが中国なら中国語を社内用語とすべきだろう。そこがベトナムならベトナム語を企業内の公用語にすべきだろう。日本なら当然日本語を公用語とすべきだ。
言語はコミュニケーションの道具であると同時に、その地の文化そのものだ。幼い日本人が日本文化を腹一杯吸い込んでいるとは思えないし、若者でも日本文化を充分に理解しているとも思えない。言語は文化の凝縮した結晶だ。英語に「微温湯」や「粉糠雨」に相当する単語表現はない。日本語には日本語でしか表現できない文化がある。それを子供たちは学ぶべきだ。
中味のない言葉をいかに上手く操っても意味がない。その反対に、拙い言葉でも中身がぎっしりと詰まっていれば相手の胸を打つ。言語は経験で言えば二十代なら海外生活半年にして現地人と対等に話せるようになるものだ。特別に学ぶ必要もなく。
日本の教育で欠けているものは日本固有の文化教育だ。海外で役立つのは日本人なら日本固有の文化でしかない。たとえば書道に秀でているとか、生け花に卓越した技を習得しているとか、江戸時代の薀蓄に長けているとか、そうしたことが必要なのだ。
日本の風俗や習慣を子供たちに教え、その意味についてもしっかりと伝えることの方が、国際人としての日本人養成には必要なことだ。バカげた「英会話」をネイティブでもない発音で子供の耳に吹き込まないことだ。
そして中学の英語補助員は現在の二倍に増やすことだ。出来れば英語の授業は外国人教師に任せることだ。