国政の無責任さと地方政治の真剣さの落差は何だろうか。
国政は菅氏の思い付きに現場からの逃避と、徹底した無責任に貫かれている。民主党のマニフェストを反故にして説明らしい説明を国民は受けていない。
それに対して地方政治では市民が直接モノ申して頑張っている。阿久根市では事の善悪は別として市長の常軌を逸した改革と、それに反発する市民の解職請求による市民投票の結果解職再選挙となった。名古屋市では議会解散を求めの署名運動で大量の無効署名と選管により認定されて一度は頓挫したかに見えたが、市民の審議請求により選管により無効とされた署名の審査により大量の有効署名認定が行われ、一転して議会は解散される見通しとなった。
どちらが民主的か、一目瞭然だろう。国政は無能な者が首相にならないと想定され、見識ある国会で選出されるものに国民が直接解任請求できる道を閉ざしている。国会議員を通してしか行えないため、首相は多数の国会議員を取り込めば何でもできる仕組みになっている。
しかし国会議員が程度の悪いタレント崩れの再就職の場と化した感のある現状で、現在の迷走ぶりは国民の責任でもある。そうした国会議員を選んだのは国民だ。
しかし民主主義とは各種の直接請求と第三者による検証の仕組みを担保した制度でなければならない。国会は国民の直接請求により解散の道を開くべきだ。そして、検審会も第三者による検証の仕組みを開くのも必要だし、被告人となるかも知れない当事者に一片の意見開陳の機会も与えない欠席審査はどう考えても非民主的な制度といわなければならない。
そのことに思い至らない裁判所とは非民主的な場なのか、司法の民主化を切に求める。