検察による起訴と検審会による起訴とは異なる。
民主党幹事長の岡田氏が小沢氏国会招致に慎重姿勢を示すのは当然のことだ。検察による起訴は「法と証拠」に基づき充分に有罪の確証を得て起訴する。それは起訴により被疑者として法廷の場に立てることは「推定無罪」の原則があるとはいえ社会的制裁を受けることでもあるからだ。一方、検審会による今回の小沢氏への強制起訴は「裁判で白黒をつけろ」という公訴権の乱用ともいうべき実に乱暴な愚挙だ。検察による起訴と検審会による起訴とは明らかに異なる取り扱いをすべきだ。
従来から国会議員は何か問題が表面化すると国政調査権を盾に被疑者を国会に招致して喚問すべきとする動きがあるが、立法府が司法府への干渉とも受け取られかねないと自重すべきだと思ってきた。そうした検察ごっこに貴重な審議時間を費やすほど愚かなことはない。今回は検審会による起訴のためことさら国会で無駄な時間を消費すべきではないだろう。
そうした議論よりも検討すべきは検審会というブラックボックスで国会議員も起訴されるという事実だ。つまり検察で「法と証拠」によって不起訴となったものが、検審会で「とりあえず起訴」して裁判で白黒つけるというのは政治家がどのような容疑でも起訴される道が開けたことになる。そうした事態に危機感を覚えない政治家は能天気の誹りを受けても仕方ないだろう。どのような人たちによって構成されどのように審議と補助員の助言によって議決が決定されているのか、すべてが非公開の密室で行われているというのは空恐ろしいことだと感じないのは想像力の欠如以外の何ものでもない。戦前の特高警察と治安維持法の関係に似ていると思うのは私だけだろうか。
政治家は国家権力がかかわる案件はすべて民主的に第三者が検証できる仕組みにしなければならない。それが法治国家たる基盤だという意識と、それを支えるのが政治家であって、間違っても仲間がそうした装置の犠牲になっている状態を手を打って喜んではならない。明日はあなたがそうしたことにならないとも限らない、巨大な闇が世間の真ん中に開いていることを恐怖しなければならない。