これほど政治的な「市民感覚」はないだろう
さっそくマスコミは小沢氏強制起訴を受けて大喜びで報じている。それに乗るかのように「小沢氏は議員辞職せよ」とか「国会で証言せよ」と息巻く政治家も多数見かける。これが国権の最高機関を構成する国会議員かと呆れ返る。
たった11人の市民とされる委員による審議(とされているが、どのような審議を何回開いたのか。7枚に及ぶ意見を誰が書いてどのように文を練り上げたのかも分からない)の結果を、有難く国民は受け止めるのだろうか。全くの裁判所の一室での秘密会で秘密の委員による議決だ。果たして「市民」なのかすら疑わしい。
だいたい法に疎い一般市民に7ページに及ぶ「議決の要旨」なる文章が書けるだろうか。読売新聞朝刊に全文が掲載されているから興味のある方はぜひ一読してみると良い。明らかに法の専門家による論理思考と文章だと分かるだろう。そうだと疑われたくなければ猶更審議経過を公開すべきだ。そうでなければ検察御得意の検察による筋書によって、検察当局が書いた「議決の要旨」に委員が署名捺印しただけかも知れないと疑われても仕方ないだろう。いや、疑われても事実だから非公開で秘密に処理した方が良い、多少の非難があっても大マスコミは仲間だからせいぜいネット程度のものでしかない、小沢氏を実際に政治の表舞台から引き摺り下ろしたのだから所期の目的は達した、というのならその通りだ。日本の民主主義は完全に敗北している。検察とその応援団の大マスコミによって完全に日本の民主主義は破壊されている。小沢氏強制起訴に溜飲を下げている愚かな国民は検察ファッショの実態に気付かないうちに飼い慣らされていくのだ。
小沢氏は正々堂々と法廷闘争を行うことだ。国民も「推定無罪」の原則と日本国憲法に謳われている「基本的人権」を十分に認識してこの事態に対処しなければならないだろう。間違っても馬鹿な民主党静岡選出議員や野党党首のように「議員辞職すべき」などと口走らないことだ。起訴と個人の人権の制限とどのような因果関係があるというのか、説明してもらいたいものだ。
いやしくも国会議員なら国権の最高機関を構成する国会議員の同僚に対する司法権の挑戦だという認識を持たないでどうするのか。検察が起訴に踏み切らなかったものを素人の「市民」が起訴するとは言語道断だ。検審会とはそもそも警察や検察など仲間内の犯罪に関して捜査の手が緩むのを監視するために設けられたものであって、検察が起訴できなかった事案を根拠もなく「市民目線」で起訴するために設けられたものではない。
検審会議決の裏に途轍もなく大きな恣意性と、小沢氏に対する悪魔のような悪意を感じるのは私だけだろうか。