背骨は何かが問題だ。
人の考え方は齢とともに、立場とともに変化するものだ。子供の立場と親の立場とでは社会に対する考え方、対人関係の考え方に変化がなければ成長しない人物ということになる。
政治家として若い時期から政界に身を投じた人と、功成り名を遂げた後に政界へ身を投じた人とでは政界入り後の軌跡にブレが見える人とそうでない人とがいるのは当然のことだろう。
しかし、それは身に纏う衣装が違うようなものではあるが常識的な許容範囲でなければならず、本質まで変わってしまうと他人は「変節」という。全共闘に身を投じた団塊世代の学生たちも就職すると多くは会社社会に順応し、勤続年数を重ねて管理職になれば組織人としての考え方で社員を束ねていかざるを得ない。だが、本質的に「改革」を若い頃に経験した人が保守ガチガチの社会では何処か居心地悪く感じていたのも確かだろう。民主党に政権交代したのも団塊の世代が会社から離れる時期と一致したのは不思議な符合だ。彼らは家族を守り会社人として勤め上げ人生の重い荷を肩から降ろした時、政治のありかたに安心して自己主張を反映させたのではないだろうか。
翻って菅氏の軌跡を拝読させて戴き、彼はいよいよ政権の座に就いて正体を見せる最終段階に達したと判断したのではないだろうかとの思いを強くした。変化して正体を見せる最終段階とは自民党の歴代総理大臣のごとく振る舞うことだろう。それまでは一介の書生から陣笠の議員として地歩を築き、グループの長として中間管理職のような立場になり、ついに部長職から取締役となり、寝技のような変化を繰り返して最終段階の行政府の長に上り詰めた。
やっと首相になった時、菅氏はどの姿が本当の自分の姿か見分けがつかないばかりか、どのような政策を提示すべきか政治家として拘わる明確な構想を持っていないことに気付いた。いや、世論の風にそよぐ風見鶏よろしく無定見でいることが彼の身上だったのかも知れない。そのようにしてここまでのし上がってきたのだから、そのようにして政権運営していけばよい、と観念しているのだろう。つまり変節こそが彼の政治信条ではないだろうか。
菅氏と対極をなす人物が政界に一人だけいる。小沢氏だ。彼の存在は屹立している。彼は変節しないことで壊し屋と呼ばれてきた。「政治は力」という真理から徹底して選挙を重視し、乾分の面倒を見て何人もの政治家を育ててきた。しかも彼の許を去るのも自由で、その人たちの悪口を言わず、引き留めもしなかった。それぞれにそれぞれの人生がある、と彼はストイックなほど観念しているのだろう。だからあれほど一年半もマスコミから叩かれても国民の2割ほどの固い支持者が彼には残っている。
菅氏から「静かにしろ」といわれれば小沢氏は「僕は静かに地方回りをするよ」と当落線上で懸命に闘っている候補者の許を支援に訪れている。そうしたことが子供のような口先だけの権勢欲の塊のような議員たちに出来るだろうか。
この国のマスコミは誰に奉仕しているのか、一連の民主党叩きと普天間問題で馬脚が露わになっているだろう。この国は未だにGHQの影に怯える官僚支配が続いているのだ。そうした拘束帯のような服を脱ぎ棄てなければこの国を次世代に引き渡せない、と覚悟を決めている小沢氏と、検察ヤクザの三下よろしくお先棒を担いで騒ぎ立てるマスコミとの攻防を国民は一年半も目の当たりに見てきている。
小沢氏ほどの胆力と構想力を持つ議員は彼以外にいないし今後も出てこないだろう。菅氏のように権力のためならGHQ残党の官僚と喜んで手を握る政治家はこれからも山ほど出てくる。彼らは一年ほどで使い捨てされても国民は痛痒を感じない程度のものなのだ。
人は自分の目で相手を見る。当たり前のことだが、そこに自ずと限界があるのも事実だ。プレイボーイは付き合う娘の浮気心を常に懸念するものだ。つまり自分が浮気するから、相手も浮気すると邪推する。人は自分の観念でしか相手を理解できない。
小沢氏を理解できず口汚く罵る者は「信念一筋」の男が理解できない変節漢だ。所詮、菅氏や枝野氏や仙石氏や安住氏等々に小沢氏は理解できないだろう。小沢氏は五十前に時の権力者から「総理になれ」といわれて断った男だ。
菅氏はこれからも政権維持のために変節する。その取り巻きも世論の風にくるくる回る風見鶏のような連中ばかりだから、世論の風向き一つで菅氏を弊衣のように平然と見限るだろう。とても菅氏に長期政権は勤まらない。だから菅氏は覚悟を決めて官僚に擦り寄らないで市民派の議員としての最後を市民目線で自爆するのがもっとも正統だったのだが、彼は最後の最後まで変節した。もはや行き着く限界点は見えてしまっている。