「財務省解体デモ」を批判する朝比奈氏を批判する。
<石破総理が辞任を表明し、自民党総裁選の火ぶたが切られました。
誰が出馬するのか、そして誰が勝利するのか、衆参両院で共に与党が過半数を割る中で自民党総裁の首班指名はすんなり確保できるのか、など、目の前の政局に興味は尽きませんが、もちろん、大事なことは政策です。
次の総裁に誰がなっても、減税など景気浮揚型の政策になるということを市場が見越して、日経平均など株価は急上昇しています。参院選での野党の躍進などを見ると、国民への「サービス」の強化は避けて通れないところでしょう。
ただ、個人的にちょっと違和感を持つのは、国民側は、「次の政権が何をしてくれるのか」という「待ち」の姿勢だけで良いのか、という点です。かつて、ケネディ大統領は就任演説の中で、ask not what your country can do for you, ask what you can do for your countryということ、すなわち、国が何をしてくれるかではなく、自分が国のために何が出来るのかを問わねばならない、と説きました。
国民全体に、国からの「サービス」を待つ姿勢が蔓延していることに懸念があります。われわれ一人ひとりが、社会のために何が出来るかを考える、そういう姿勢が大事だと考えつつ、いくつかの事象について、以下、議論を展開してみたいと思います。
子ども・子育て支援制度を「独身税」と呼ぶ発想の近視眼ぶり
2026年4月から、「子ども・子育て支援制度」の財源確保のため、公的健康保険料に上乗せして、原則すべての国民から月数百円の徴収が始まります。初年度は1人あたり月約250円程度、4人家族の家庭ならば年間約1.2万円の負担になります。これが2028年には1人あたりの負担額は毎月450円程度に増える予定です。
この制度は、もう国民の記憶から消えかかっているいわゆる「異次元の少子化対策」の一環として実施されるものですが、子育て世帯には児童手当の増額や妊婦のための支援給付などというメリットがある一方、独身者は負担だけが生じることとなります。そのためか、「独身税」という別名をつけられ、ネットなどでは盛んに揶揄されてきました。「独身者だけが損をする制度じゃないか、おかしいじゃないか」ということでしょう。
これに対し、三原じゅん子・子ども政策担当大臣は「“独身税”と言い換えることは間違っている」として、強く反論しています。
私個人の感覚で言えば、この有り様には、世も末だとの思いを禁じえません。
国の将来のための公的負担を「独身税」と皮肉を込めて呼ぶ現象は、今の日本社会の中で、社会全体の支え合いへの感謝や理解が薄れていることを象徴しているのだと思います。「独身税」と揶揄する人々の心情は、国債価格の暴落を防ごうと日夜努力している官僚たちを国賊扱いして財務省前でデモを繰り返す人たちのメンタリティにも通じます。行くなら、売り浴びせようとする外資系金融機関などの前でやるべきでしょう。話が逸れましたが、いずれも「感謝を忘れた人々」です。
日本経済が失ったもの
かつて世界で日本経済のプレゼンスが大きかった時代、その強さを背景に、欧米流資本主義のアンチテーゼが盛んに喧伝されたことがありました。
欧米、特にアメリカの資本主義は短期的合理主義、要するに目の前の利益の最大化を追求しようというものです。これはすべてを数字で判断するので、非常にパワフルな考え方です。
それに対して、日本流の資本主義は長期的な合理性を重視していました。欧米とは違う資本主義の形が、日本を世界に冠たる経済大国に押し上げた、という論調です。
現在では批判されることが多いシステムですが、当時は実際に多くの企業が終身雇用や年功序列を原則とし、それにより従業員は会社への忠誠心を高めました。結果的にこれは、製造業中心の日本経済において、企業の雇用の安定化や、長期的強さに結びついていました。会社への忠誠心がなく、私利私欲でストライキを繰り返す米企業を見て、「どうして労使で協調しないのか」と嘆く人たちは少なくありませんでした。
経営一般の考え方として、多少のコスト高があったとしても「損して得取れ」「三方よし」「和を以て貴しとなす」といった利他精神が重視され、欧米的なゼロサム・ゲームとは異なるスタイルの企業運営がなされてきました。余談にはなりますが、目先の利益を重視して、日本国と、ひいては日本社会と「約束」をしたにもかかわらず、自分の都合で洋上風力発電案件を放棄した三菱商事は、当時の日本人であれば、今どころではなく非難したことと思います。
しかし1990年代以降、短期的利益優先のアメリカ資本主義の影響が強まり、利益の最大化、コストの最小化を追求することこそが経営のあるべき姿だという考えが日本社会全体を覆うようになりました。どちらがニワトリでどちらが卵かは分かりませんが、軌を一にして、日本経済のプレゼンスも弱くなっていきました。
その影響は個人レベルにも及び、勤務先との関係を信頼関係や人間関係よりも「自分にとって損か得か」的な基準で考える人々が増えました。
そうしたマインドが行き過ぎた結果、短期的なものの見方だけで判断すれば、「子育て支援金の負担なんて独身の自分にはメリットがないじゃないか、これじゃ独身税だ!」と叫びたくなってしまうのでしょう。
しかし中長期的な視点に立てば、将来を担う子どもが経済的に困窮したり、その数が大幅に減ったりしたら、日本の社会自体が立ち行かなくなります。ひいては、10年後、20年後、30年後、現在の独身者を含む現役世代も大いに困ることになるのです。そうならないための、「子ども・子育て支援制度」なのです。
それが理解できないのか、「この先、日本民族がどうなろうが、人類がどうなろうが知ったこっちゃない。とにかく、俺から税金やら社会保険料やらガッポリもっていくのはやめてくれ」と考えてしまう人が少なくないという現状には嘆きしかありません。
このまま「常識」が崩れ続けたら…
日本人にとっての「常識」が完全に崩れてしまったら世の中はどうなるでしょうか。
「家を残すなんていうこと、どうでもいいや」と考える人が増えれば、子どもを産む人も減るでしょう。少子化が加速することになります。子育てにはお金もかかりますし、時間も取られます。その時間やお金を自分に向けた方が「得だ」と皆が考えるようになれば、次代へのバトンはそこで途切れます。
「地域を保つなんて、別に自分の役目じゃないよ」という発想が一般的になれば、地方を捨てて都市部に出てくる人が増えるでしょう。当人は「都会のほうが給料高いし、キラキラしていていいよね」と思うかもしれませんが、これでは各地は消滅可能性都市だらけになってしまいます。故郷に残してきた両親のことは少しは気になるものの、都会の生活は捨てられない、というのが多くの上京者の偽らざる感情でしょう。
国家・社会を維持することについて関心が低くなれば、公務員のなり手がいなくなったり、人材の質が低下したりという現象が起きるでしょう。「公務員になって国や自治体のために働くより、もっと給料のいい民間企業で働いた方がいいや」という人ばかりになれば、公的サービスの維持がだんだん難しくなってきます。
実際に、東大生の多くが「公のために自己犠牲をする」というキャリア官僚より、給料が高く自分が成長できると感じる外資系企業への就職を選んでいますし、教員や自衛官、民生委員やPTA役員など、人口減少以上に、こうした「公の職」へのなり手は減っています。
家・地域社会・国家の崩壊は、現実に始まっていることなのです。こうした「精神の崩壊」が加速化している中では、いくら「異次元の少子化対策」を講じたところで、効果は限定的です。1人産んだら1億円支給されるということでしたら、損得合理主義の中でも子どもを産む人はいるでしょうが、現実的ではありません。男性育休に対して100%の給料を保証するなど、マイナスをゼロにする程度の方策では、効果は知れているでしょう。
自己犠牲の精神は不可欠
いま欠けているのは、家のため、地域のため、国家・社会のために頑張るリーダーです。リーダーというのは、私が各所で述べていますが人を率いる「指導者」ではなく、自らを鼓舞して前進する「始動者」のことです。家のため、地域のため、国家・社会のために自己犠牲をいとわず動いてくれるリーダーが続々と現れてくる、そのリーダーの行動を見た周囲の人々の意識が徐々に変わっていく――という循環が出来ないと、日本は本当に損得勘定優先の情けない国・社会になってしまいます。
短期的合理性を重視するなら、「必要以上に頑張ったりせず、与えられたゲームの中で、できるだけ高い給料をもらって、ほどほどに生きていこう」というのが「もっとも賢い」生き方なのかもしれません。それは合理的と言えば合理的なのかも知れません。
しかし、日本人全員がそういう発想になってしまえば、家も地域も国家・社会も立ち行かなくなります。
世の中的に、ワークライフバランスが重視され、勤務時間を超えて頑張ったりすることをよしとしない風潮になってしまいました。ただ、本来のワークライフバランスとは、「働き方は自分で決める」ということです。人によっては「世のため人のために、労働時間にとらわれず頑張りたい」という人もいるでしょう。そういう生き方、働き方も選択肢としてあるはずなのに。今は世の中的に「勤務時間を超えて働くのはやめよう」と単純に時間で測って、働き方を強制する風潮があります。
人はひとりきりでは生きていけません。自分の仕事だけして給料をもらっていればそれで十分じゃないか、という考えは自己中心的に過ぎます。
私たちは、それぞれが出来うる範囲で、家や地域、国家・社会のために何かをすることで、世の中を維持してきました。「自分のことだけやっていれば十分」という考え方が行き着いた先が、生活への不満を財務官僚のせいにしたり、いくばくかの自己犠牲を迫られた途端「独身税だ」と叫んだりするメンタリティではないでしょうか。少子化、地域の衰退、公務員のなり手の減少の根っこに、全て、この行き過ぎた合理主義があります。
一人ひとりが、短期的な損得を超えて行動していかないと、われわれを取り巻く家、地域、国家、社会に明るい展望は開けてこないと思うのです。もう一度書きます。今こそ、ask what you can do for your countryが大事なのです>(以上「JB press」より引用)
「自民党総裁選を前に思う、日本人はいつから「公共の利益」を顧みず「目先の損得」ばかり重視するようになったのかーー子育て支援制度を「独身税」と呼ぶメンタリティ、少子化も消滅可能都市も公務員のなり手不足も原因はここに」と朝比奈 一郎(青山社中筆頭代表・CEO)氏は国民を批判しているが、むしろ国民が選択して来た政治こそが現在の結果を招来しているのではないだろうか。
誰が出馬するのか、そして誰が勝利するのか、衆参両院で共に与党が過半数を割る中で自民党総裁の首班指名はすんなり確保できるのか、など、目の前の政局に興味は尽きませんが、もちろん、大事なことは政策です。
次の総裁に誰がなっても、減税など景気浮揚型の政策になるということを市場が見越して、日経平均など株価は急上昇しています。参院選での野党の躍進などを見ると、国民への「サービス」の強化は避けて通れないところでしょう。
ただ、個人的にちょっと違和感を持つのは、国民側は、「次の政権が何をしてくれるのか」という「待ち」の姿勢だけで良いのか、という点です。かつて、ケネディ大統領は就任演説の中で、ask not what your country can do for you, ask what you can do for your countryということ、すなわち、国が何をしてくれるかではなく、自分が国のために何が出来るのかを問わねばならない、と説きました。
国民全体に、国からの「サービス」を待つ姿勢が蔓延していることに懸念があります。われわれ一人ひとりが、社会のために何が出来るかを考える、そういう姿勢が大事だと考えつつ、いくつかの事象について、以下、議論を展開してみたいと思います。
子ども・子育て支援制度を「独身税」と呼ぶ発想の近視眼ぶり
2026年4月から、「子ども・子育て支援制度」の財源確保のため、公的健康保険料に上乗せして、原則すべての国民から月数百円の徴収が始まります。初年度は1人あたり月約250円程度、4人家族の家庭ならば年間約1.2万円の負担になります。これが2028年には1人あたりの負担額は毎月450円程度に増える予定です。
この制度は、もう国民の記憶から消えかかっているいわゆる「異次元の少子化対策」の一環として実施されるものですが、子育て世帯には児童手当の増額や妊婦のための支援給付などというメリットがある一方、独身者は負担だけが生じることとなります。そのためか、「独身税」という別名をつけられ、ネットなどでは盛んに揶揄されてきました。「独身者だけが損をする制度じゃないか、おかしいじゃないか」ということでしょう。
これに対し、三原じゅん子・子ども政策担当大臣は「“独身税”と言い換えることは間違っている」として、強く反論しています。
私個人の感覚で言えば、この有り様には、世も末だとの思いを禁じえません。
国の将来のための公的負担を「独身税」と皮肉を込めて呼ぶ現象は、今の日本社会の中で、社会全体の支え合いへの感謝や理解が薄れていることを象徴しているのだと思います。「独身税」と揶揄する人々の心情は、国債価格の暴落を防ごうと日夜努力している官僚たちを国賊扱いして財務省前でデモを繰り返す人たちのメンタリティにも通じます。行くなら、売り浴びせようとする外資系金融機関などの前でやるべきでしょう。話が逸れましたが、いずれも「感謝を忘れた人々」です。
日本経済が失ったもの
かつて世界で日本経済のプレゼンスが大きかった時代、その強さを背景に、欧米流資本主義のアンチテーゼが盛んに喧伝されたことがありました。
欧米、特にアメリカの資本主義は短期的合理主義、要するに目の前の利益の最大化を追求しようというものです。これはすべてを数字で判断するので、非常にパワフルな考え方です。
それに対して、日本流の資本主義は長期的な合理性を重視していました。欧米とは違う資本主義の形が、日本を世界に冠たる経済大国に押し上げた、という論調です。
現在では批判されることが多いシステムですが、当時は実際に多くの企業が終身雇用や年功序列を原則とし、それにより従業員は会社への忠誠心を高めました。結果的にこれは、製造業中心の日本経済において、企業の雇用の安定化や、長期的強さに結びついていました。会社への忠誠心がなく、私利私欲でストライキを繰り返す米企業を見て、「どうして労使で協調しないのか」と嘆く人たちは少なくありませんでした。
経営一般の考え方として、多少のコスト高があったとしても「損して得取れ」「三方よし」「和を以て貴しとなす」といった利他精神が重視され、欧米的なゼロサム・ゲームとは異なるスタイルの企業運営がなされてきました。余談にはなりますが、目先の利益を重視して、日本国と、ひいては日本社会と「約束」をしたにもかかわらず、自分の都合で洋上風力発電案件を放棄した三菱商事は、当時の日本人であれば、今どころではなく非難したことと思います。
しかし1990年代以降、短期的利益優先のアメリカ資本主義の影響が強まり、利益の最大化、コストの最小化を追求することこそが経営のあるべき姿だという考えが日本社会全体を覆うようになりました。どちらがニワトリでどちらが卵かは分かりませんが、軌を一にして、日本経済のプレゼンスも弱くなっていきました。
その影響は個人レベルにも及び、勤務先との関係を信頼関係や人間関係よりも「自分にとって損か得か」的な基準で考える人々が増えました。
そうしたマインドが行き過ぎた結果、短期的なものの見方だけで判断すれば、「子育て支援金の負担なんて独身の自分にはメリットがないじゃないか、これじゃ独身税だ!」と叫びたくなってしまうのでしょう。
しかし中長期的な視点に立てば、将来を担う子どもが経済的に困窮したり、その数が大幅に減ったりしたら、日本の社会自体が立ち行かなくなります。ひいては、10年後、20年後、30年後、現在の独身者を含む現役世代も大いに困ることになるのです。そうならないための、「子ども・子育て支援制度」なのです。
それが理解できないのか、「この先、日本民族がどうなろうが、人類がどうなろうが知ったこっちゃない。とにかく、俺から税金やら社会保険料やらガッポリもっていくのはやめてくれ」と考えてしまう人が少なくないという現状には嘆きしかありません。
社会維持意識まで喪失
つい最近まで、日本の社会には、自己犠牲を伴いながらも、家族や地域、もっと広くとらえれば国家や人類を維持しようとする意識が根付いていました。
これが現在は大きく変わってきました。
財務省前で「財務省解体」を叫んでデモしている人たちの発想も同じでしょう。「俺たちの生活はこんなに苦しいのに、財務省の官僚たちは私腹を肥やし、俺たちを助けようとしないばかりか、増税までしようとしている」と考えているように見えます。
しかし、財務省の官僚たちは本当に「庶民がどれだけ困ろうと、自らの保身や国家財政のため、増税が必要なのだ」などと考えているのでしょうか。霞が関にいた私が知る限り、そんなことはありません。
財務官僚に限らず、霞が関の役人たちは、日本をもっとよい国にしたいという志を持って官僚になった人たちがほとんどです。財務官僚にしても、財政状況が厳しい中でも日本という国家が財政破綻することなく、ずっと維持できるように、日夜頑張っている人たちがほとんどなのは間違いありません。
ですから、財務省前でデモしている人たちが本来、抗議デモをするべきなのは、たとえば日本国債の売買を繰り返して利ザヤを稼いでいるような外資系金融機関のオフィスの前なのです。日本国債を安易に売るな、と。ましてや空売りまがいのことはするな、と。
ですから「子ども・子育て支援制度」を独身税と呼ぶ人々、財務省前で「財務省解体」を叫ぶ人々に共通しているのは、世の中に対する「感謝のなさ」だと思うのです。
考えようによっては、「世の中」の一番小さな集団の単位は、家・家族です。家や家族を、いかに次世代に残し、維持するかをかつての日本人は重視してきました。家や家族を、いかに次世代に残し、維持するかをかつての日本人は重視してきました。家や家族を、いかに次世代に残し、維持するかをかつての日本人は重視してきました。
家・家族の次の単位は、地域社会です。日本人はその地域に住み続け、そこで生じた問題を長老などを中心に自分たちで何とかするという発想で、地域社会を次代につなげてきました。
そして地域の先にあるもう一段、大きな単位は国家・社会です。戦前・戦中の「お国のため」という意識とはまた別種の、国家や社会を健全に保つ、子や孫の世代によりよい国や社会を残していきたいというごく自然な気持ちが日本人にはありました。
この家や地域、国家・社会をより良いものにし、次世代につないでいく――日本人にとって当たり前のこのプロセスの中で、多少の「自己犠牲」が生じますが、それを人々は受け入れてきました。
と言うより、短期的には損をしているように見えますが、中長期的には家が保たれ、地域が保たれ、国家が保たれるということで、次代の子孫のために頑張ってきたわけです。こういうことは人として当然のことだというのが、少し前の日本人の常識でした。その合理性がいま急速に崩れ始めているように見えます。
つい最近まで、日本の社会には、自己犠牲を伴いながらも、家族や地域、もっと広くとらえれば国家や人類を維持しようとする意識が根付いていました。
これが現在は大きく変わってきました。
財務省前で「財務省解体」を叫んでデモしている人たちの発想も同じでしょう。「俺たちの生活はこんなに苦しいのに、財務省の官僚たちは私腹を肥やし、俺たちを助けようとしないばかりか、増税までしようとしている」と考えているように見えます。
しかし、財務省の官僚たちは本当に「庶民がどれだけ困ろうと、自らの保身や国家財政のため、増税が必要なのだ」などと考えているのでしょうか。霞が関にいた私が知る限り、そんなことはありません。
財務官僚に限らず、霞が関の役人たちは、日本をもっとよい国にしたいという志を持って官僚になった人たちがほとんどです。財務官僚にしても、財政状況が厳しい中でも日本という国家が財政破綻することなく、ずっと維持できるように、日夜頑張っている人たちがほとんどなのは間違いありません。
ですから、財務省前でデモしている人たちが本来、抗議デモをするべきなのは、たとえば日本国債の売買を繰り返して利ザヤを稼いでいるような外資系金融機関のオフィスの前なのです。日本国債を安易に売るな、と。ましてや空売りまがいのことはするな、と。
ですから「子ども・子育て支援制度」を独身税と呼ぶ人々、財務省前で「財務省解体」を叫ぶ人々に共通しているのは、世の中に対する「感謝のなさ」だと思うのです。
考えようによっては、「世の中」の一番小さな集団の単位は、家・家族です。家や家族を、いかに次世代に残し、維持するかをかつての日本人は重視してきました。家や家族を、いかに次世代に残し、維持するかをかつての日本人は重視してきました。家や家族を、いかに次世代に残し、維持するかをかつての日本人は重視してきました。
家・家族の次の単位は、地域社会です。日本人はその地域に住み続け、そこで生じた問題を長老などを中心に自分たちで何とかするという発想で、地域社会を次代につなげてきました。
そして地域の先にあるもう一段、大きな単位は国家・社会です。戦前・戦中の「お国のため」という意識とはまた別種の、国家や社会を健全に保つ、子や孫の世代によりよい国や社会を残していきたいというごく自然な気持ちが日本人にはありました。
この家や地域、国家・社会をより良いものにし、次世代につないでいく――日本人にとって当たり前のこのプロセスの中で、多少の「自己犠牲」が生じますが、それを人々は受け入れてきました。
と言うより、短期的には損をしているように見えますが、中長期的には家が保たれ、地域が保たれ、国家が保たれるということで、次代の子孫のために頑張ってきたわけです。こういうことは人として当然のことだというのが、少し前の日本人の常識でした。その合理性がいま急速に崩れ始めているように見えます。
このまま「常識」が崩れ続けたら…
日本人にとっての「常識」が完全に崩れてしまったら世の中はどうなるでしょうか。
「家を残すなんていうこと、どうでもいいや」と考える人が増えれば、子どもを産む人も減るでしょう。少子化が加速することになります。子育てにはお金もかかりますし、時間も取られます。その時間やお金を自分に向けた方が「得だ」と皆が考えるようになれば、次代へのバトンはそこで途切れます。
「地域を保つなんて、別に自分の役目じゃないよ」という発想が一般的になれば、地方を捨てて都市部に出てくる人が増えるでしょう。当人は「都会のほうが給料高いし、キラキラしていていいよね」と思うかもしれませんが、これでは各地は消滅可能性都市だらけになってしまいます。故郷に残してきた両親のことは少しは気になるものの、都会の生活は捨てられない、というのが多くの上京者の偽らざる感情でしょう。
国家・社会を維持することについて関心が低くなれば、公務員のなり手がいなくなったり、人材の質が低下したりという現象が起きるでしょう。「公務員になって国や自治体のために働くより、もっと給料のいい民間企業で働いた方がいいや」という人ばかりになれば、公的サービスの維持がだんだん難しくなってきます。
実際に、東大生の多くが「公のために自己犠牲をする」というキャリア官僚より、給料が高く自分が成長できると感じる外資系企業への就職を選んでいますし、教員や自衛官、民生委員やPTA役員など、人口減少以上に、こうした「公の職」へのなり手は減っています。
家・地域社会・国家の崩壊は、現実に始まっていることなのです。こうした「精神の崩壊」が加速化している中では、いくら「異次元の少子化対策」を講じたところで、効果は限定的です。1人産んだら1億円支給されるということでしたら、損得合理主義の中でも子どもを産む人はいるでしょうが、現実的ではありません。男性育休に対して100%の給料を保証するなど、マイナスをゼロにする程度の方策では、効果は知れているでしょう。
自己犠牲の精神は不可欠
いま欠けているのは、家のため、地域のため、国家・社会のために頑張るリーダーです。リーダーというのは、私が各所で述べていますが人を率いる「指導者」ではなく、自らを鼓舞して前進する「始動者」のことです。家のため、地域のため、国家・社会のために自己犠牲をいとわず動いてくれるリーダーが続々と現れてくる、そのリーダーの行動を見た周囲の人々の意識が徐々に変わっていく――という循環が出来ないと、日本は本当に損得勘定優先の情けない国・社会になってしまいます。
短期的合理性を重視するなら、「必要以上に頑張ったりせず、与えられたゲームの中で、できるだけ高い給料をもらって、ほどほどに生きていこう」というのが「もっとも賢い」生き方なのかもしれません。それは合理的と言えば合理的なのかも知れません。
しかし、日本人全員がそういう発想になってしまえば、家も地域も国家・社会も立ち行かなくなります。
世の中的に、ワークライフバランスが重視され、勤務時間を超えて頑張ったりすることをよしとしない風潮になってしまいました。ただ、本来のワークライフバランスとは、「働き方は自分で決める」ということです。人によっては「世のため人のために、労働時間にとらわれず頑張りたい」という人もいるでしょう。そういう生き方、働き方も選択肢としてあるはずなのに。今は世の中的に「勤務時間を超えて働くのはやめよう」と単純に時間で測って、働き方を強制する風潮があります。
人はひとりきりでは生きていけません。自分の仕事だけして給料をもらっていればそれで十分じゃないか、という考えは自己中心的に過ぎます。
私たちは、それぞれが出来うる範囲で、家や地域、国家・社会のために何かをすることで、世の中を維持してきました。「自分のことだけやっていれば十分」という考え方が行き着いた先が、生活への不満を財務官僚のせいにしたり、いくばくかの自己犠牲を迫られた途端「独身税だ」と叫んだりするメンタリティではないでしょうか。少子化、地域の衰退、公務員のなり手の減少の根っこに、全て、この行き過ぎた合理主義があります。
一人ひとりが、短期的な損得を超えて行動していかないと、われわれを取り巻く家、地域、国家、社会に明るい展望は開けてこないと思うのです。もう一度書きます。今こそ、ask what you can do for your countryが大事なのです>(以上「JB press」より引用)
「自民党総裁選を前に思う、日本人はいつから「公共の利益」を顧みず「目先の損得」ばかり重視するようになったのかーー子育て支援制度を「独身税」と呼ぶメンタリティ、少子化も消滅可能都市も公務員のなり手不足も原因はここに」と朝比奈 一郎(青山社中筆頭代表・CEO)氏は国民を批判しているが、むしろ国民が選択して来た政治こそが現在の結果を招来しているのではないだろうか。
「財務省解体デモ」に関しても、朝比奈氏は「財務官僚にしても、財政状況が厳しい中でも日本という国家が財政破綻することなく、ずっと維持できるように、日夜頑張っている人たちがほとんどなのは間違いありません」。だから批判すべきは「財務省前でデモしている人たちが本来、抗議デモをするべきなのは、たとえば日本国債の売買を繰り返して利ザヤを稼いでいるような外資系金融機関のオフィスの前なのです。日本国債を安易に売るな、と。ましてや空売りまがいのことはするな、と」と機関投資家や金融機関をやり玉に挙げている。
しかし機関投資家は現在ある「制度」の中で単位時間当たり最大利益を上げるために持てる能力を最大限発揮しているに過ぎない。その「制度」を創っているのは政治であり、運用しているのは官僚たちだ。
国民が「財務省解体デモ」を行うのは財務官僚が政治家やオールドメディアを「緊縮・増税」で洗脳し、日本を失われた35年に導いたという実感があればこそ、ではないか。その証拠に元財務官僚の政治家が「緊縮・増税」を頻りと説いているではないか。
そして朝比奈氏が決定的に誤っているのは「財務官僚にしても、財政状況が厳しい中でも日本という国家が財政破綻することなく、ずっと維持できるように、日夜頑張っている」という認識ではないだろうか。なぜなら日本の税収はここ数年以上も対前年比増の最大の税収を上げているからだ。「財政が厳しい」のが本当なら、それは財務官僚が無能だからではないだろうか。
現に2024年度の翌年度繰越額は30兆円に達している。朝比奈氏が「財務官僚にしても、財政状況が厳しい中でも日本という国家が財政破綻することなく、ずっと維持できるように、日夜頑張っている」と認識しているとすれば、それはオールドメディアによって刷り込まれた間違った知識による批判でしかない。日本の国庫は絶えず対前年比増の税収で潤っている。足らないとすれば、官僚たちが天下る「別荘」の数をもっと増やそうという欲求が強いだけだ。
小泉-竹中「構造改革」によって、地方交付金は軒並三割カットされた。そして公共事業も削減され、派遣業法も野放図に緩和された。国家予算の社会インフラや国民への配分は極端に減らされ、緊急性の少ない「環境」や「女性参画事業」といった活動家たちの資金源を肥大させていった。結果として再エネ重視で自然環境を破壊しても恥じない日本国民を激増させ、女性の権利を謳いつつ女性を家庭が追い出して少子化を招来している。
朝比奈氏の本質的な誤りは経済を静態的に捉えていることだ。それはバブル崩壊以後、日本経済が成長していないことから来る「同一のパイ」を前提とした議論から来る間違いだ。「パイ=GDP」がおなじなら、生産された所得を国民が多く取れば政府の取り分が少なくなる。だから増税と社会保険などの負担を増やせば政府取り分が増えて、国民は貧困化する。単純な話だ。
しかし、それでは閉塞感が日本社会を覆うだけだ。日本が「失われた35」年に突入している間に、世界各国の経済規模は平均で2~3倍になった。日本も世界の平均的な経済成長をしていたなら、GDPは1,000兆円から1,500兆円に成長していたはずだ。そうすれば国民所得も現行の2~3倍になっていた。バブル退治のための信用収縮政策を財務省は崩壊も続けて、民間金融規模を縮小させ続けた。だから異次元金融緩和を行っても、一向に民間貸出残が増えなかった。ちなみに現在の市中貨幣流通量はバブル当時と総量では約700兆円前後と変わらない。ただし、構成を見ると日銀が発行した貨幣がバブル当時は200兆円程度だったのに対して、市中銀行が発行したペンマネーが500兆円もあった。現在ではその構成が反転して日銀発行の貨幣が500兆円規模であるのに対して市中銀行が発行するペンマネーは200兆円規模にとどまっている。だから国民に好況感がなく、国民所得も伸びないのだ。
日本が沈滞している全ての元凶は「緊縮・増税」経済政策だ。日本の活力を取り戻すには外国人移民政策ではない。「積極・減税」路線に経済政策を転換することだ。日本経済を転換させるための最大の経済政策は「消費税廃止」だ。
日本の「失われた35」年は消費税とともに始まった。GDPの約六割を占める個人消費のブレーキが消費税だ。ブレーキを掛けたまま、いかに景気対策を行ってアクセルを踏んでも景気は加速しない。政府は「故意に物価高」を演出しているが、それらは「利益」は仲卸や大企業に吸収されるだけだ。経済のブレーキを外して、経済成長する国に転換しない限り、実質国民所得は増えない。消費税廃止をすればこれまで停滞していた新築家屋や高額消費財の購入が爆発的に増加し、消費税で失われた税収以上の経済効果による増収が見込まれる。ただし、法人税は旧に復して、法人利益を内部留保に溜め込むインセンティブを排除しなければ、利益が労働者へ配分されない。株主配当や役員報酬に化けるだけだ。
朝比奈氏の論評を酷評してきたが、最後の「自己犠牲の精神は不可欠」という章には全面的に賛同する。安易に少子化対策として外国人移民を入れるのではなく、日本国民が日本の国家と国民のために頑張らなくて、誰が頑張るというのか。そうした意味でも日本国民は独立自尊の精神を忘れてはならない。