崩壊する経済が中国に民主化をもたらすのか。
<独裁者が弁明するようでは
3月3日、中国共産党機関紙の人民日報は一面トップで「私は一貫として民営企業を支持している」と題する新華社通信の長文記事を掲載した。かなりの長文であるから、人民日報は記事の大半を第4面の約半分を使って掲載しているが、ここでの「私は一貫して……」云々というのは習近平主席の言葉であって、要するにこの記事は習主席のことを主人公にして、彼が今までいかにして民営企業を支持・支援してきていることを記したものである。
その内容は、習主席が河北省正定県共産党書記を務めた1985年にまで遡って、それからの長い歳月において、習氏は民営企業の支持・支援にどれほど熱心であってどれほど尽力してきているかを時間列に延々と記述し、賛美したものである。
その中には、福建省福州市党書記を務めた時に、福耀公司という民営企業が資金難に陥った時に国有銀行を命じて融資させ、福耀公司を窮地から救った話や、浙江省共産党書記を務めた時に、寧波市で連続3日間、8軒の民営企業を視察し経営者たちを激励したという話など、「習近平が民間企業のために尽力した」という類の美談がふんだんに盛り込まれている。そして記事の内容構成全体はやはり、「習主席は昔から 民営企業が大好き、大いに助けた」とのことを極力印象付けようとしているのである。
このような長文の提灯記事が人民日報一面に掲載されるのには当然、大いなる理由がある。中国国内では周知の話であるが、共産党トップになってからの十数年間、それこそ「一貫として」民間企業を圧迫して抑制してきているのはむしろ習近平その人であり、一般的には彼こそが「民間企業虐め」の真犯人だと思われている。要するにこの新華社通信記事は、習氏にまつわる「民間企業虐め」のイメージを払拭してその「汚名返上」を意図したものであろう。
その一方、習近平側近が支配している宣伝機関である人民日報による長文記事掲載には、もう一つの意図が見え隠れている。それはすなわち、「民間企業を虐めすぎて今の経済不況を招いた」という習氏に対する批判が党内でも広がっている中で、「習主席が昔から民間企業支援」との「実績」をアピールすることによって、主席のための弁明を行なっているわけである。
しかしこのことは逆に、習氏が党内で批判されていること、そして地位が必ずしも安泰ではないことを暴露している。独裁者が「弁明」に追い込まれることは普通、その独裁的地位が失墜し始めたことの証拠であり、「習近平転落」の始まりとも言える。
3月3日、中国共産党機関紙の人民日報は一面トップで「私は一貫として民営企業を支持している」と題する新華社通信の長文記事を掲載した。かなりの長文であるから、人民日報は記事の大半を第4面の約半分を使って掲載しているが、ここでの「私は一貫して……」云々というのは習近平主席の言葉であって、要するにこの記事は習主席のことを主人公にして、彼が今までいかにして民営企業を支持・支援してきていることを記したものである。
その内容は、習主席が河北省正定県共産党書記を務めた1985年にまで遡って、それからの長い歳月において、習氏は民営企業の支持・支援にどれほど熱心であってどれほど尽力してきているかを時間列に延々と記述し、賛美したものである。
その中には、福建省福州市党書記を務めた時に、福耀公司という民営企業が資金難に陥った時に国有銀行を命じて融資させ、福耀公司を窮地から救った話や、浙江省共産党書記を務めた時に、寧波市で連続3日間、8軒の民営企業を視察し経営者たちを激励したという話など、「習近平が民間企業のために尽力した」という類の美談がふんだんに盛り込まれている。そして記事の内容構成全体はやはり、「習主席は昔から 民営企業が大好き、大いに助けた」とのことを極力印象付けようとしているのである。
このような長文の提灯記事が人民日報一面に掲載されるのには当然、大いなる理由がある。中国国内では周知の話であるが、共産党トップになってからの十数年間、それこそ「一貫として」民間企業を圧迫して抑制してきているのはむしろ習近平その人であり、一般的には彼こそが「民間企業虐め」の真犯人だと思われている。要するにこの新華社通信記事は、習氏にまつわる「民間企業虐め」のイメージを払拭してその「汚名返上」を意図したものであろう。
その一方、習近平側近が支配している宣伝機関である人民日報による長文記事掲載には、もう一つの意図が見え隠れている。それはすなわち、「民間企業を虐めすぎて今の経済不況を招いた」という習氏に対する批判が党内でも広がっている中で、「習主席が昔から民間企業支援」との「実績」をアピールすることによって、主席のための弁明を行なっているわけである。
しかしこのことは逆に、習氏が党内で批判されていること、そして地位が必ずしも安泰ではないことを暴露している。独裁者が「弁明」に追い込まれることは普通、その独裁的地位が失墜し始めたことの証拠であり、「習近平転落」の始まりとも言える。
秘密警察まで習近平路線批判か
これと関連して、3月15日に中国の国家安全部の公式カウントが掲載した一通の論評が、また、海外でも波紋を呼んでいる。
「漢王朝、経済の盛衰と国家安全」と題するこの論評は、前漢時代の経済・政治を取り上げて次のように論じる。
1)前漢時代初期、王朝が経済発展に有利な政策を推進し、土地制度や税制などでも斬新な政策を実施し、そして民間に自主権を与えた。その結果、農業生産が急速に回復し経済は繁栄した。
2)しかし漢武帝の時代になると、武帝は大規模な討伐戦争を発動し国力を大きく消耗させた一方、民間の手工業に対しては乱暴な高税収政策を強行し、商業と手工業に大きな打撃を与えて、経済を大きく後退させた。そしてそれは、前漢王朝が隆盛から衰退・滅亡へと向かう原因を作った。
3)従ってわれわれは前漢王朝の成功と失敗から教訓を汲み、経済の安全こそは国家安全の基本であり、経済建設を持って中心点とすることは国家振興の要であることを認識すべきである。
以上は、国家安全部論評の概要であるが、国家の情報機関が前漢王朝の歴史を引き出しにして経済政策の優劣を論じること自体は異様に思われるが、やはりそこは、中国人慣用の「借古喩今」の手法を使っての、現代中国の政治経済政策論評ではないかと思われる。
こうしてみると、前述の1はまさに、鄧小平時代の改革開放政策の中身を論じてそれが「経済の回復と繁栄」をもたらしたことを高く評価したものである。そして2は一転して、鄧小平路線から離反した今の習近平政権のことを念頭に入れて、覇権主義政策と強硬外交の推進に走る一方、民間企業を虐めることで中国経済を大きく後退させた習近平政策を暗に批判しているのではないかと思われる。
こうした上で3は、「経済建設を持って中心点とする」という言葉を持ち出して「経済安全」の重要性を強調しているが、実はここの「経済建設を持って中心点とする」という言葉こそは鄧小平時代を象徴するキャッチフレーズであって、鄧小平時代から胡錦濤時代までの共産党政権の諸政策の基本の中の基本である。
従って国家安全部論評は、まさに「経済建設を中心点とする」鄧小平路線を持ち出して、経済よりも国家安全を重んじる習近平路線を暗に批判しているのではないかと解釈できる。もしそうであれば、軍と公安警察に続いて、秘密警察も「習近平離れ」を始めたことになるわけであるが、それはまた、国内政治における習近平の地位失墜の兆候の一つだと見ることもできよう。
これと関連して、3月15日に中国の国家安全部の公式カウントが掲載した一通の論評が、また、海外でも波紋を呼んでいる。
「漢王朝、経済の盛衰と国家安全」と題するこの論評は、前漢時代の経済・政治を取り上げて次のように論じる。
1)前漢時代初期、王朝が経済発展に有利な政策を推進し、土地制度や税制などでも斬新な政策を実施し、そして民間に自主権を与えた。その結果、農業生産が急速に回復し経済は繁栄した。
2)しかし漢武帝の時代になると、武帝は大規模な討伐戦争を発動し国力を大きく消耗させた一方、民間の手工業に対しては乱暴な高税収政策を強行し、商業と手工業に大きな打撃を与えて、経済を大きく後退させた。そしてそれは、前漢王朝が隆盛から衰退・滅亡へと向かう原因を作った。
3)従ってわれわれは前漢王朝の成功と失敗から教訓を汲み、経済の安全こそは国家安全の基本であり、経済建設を持って中心点とすることは国家振興の要であることを認識すべきである。
以上は、国家安全部論評の概要であるが、国家の情報機関が前漢王朝の歴史を引き出しにして経済政策の優劣を論じること自体は異様に思われるが、やはりそこは、中国人慣用の「借古喩今」の手法を使っての、現代中国の政治経済政策論評ではないかと思われる。
こうしてみると、前述の1はまさに、鄧小平時代の改革開放政策の中身を論じてそれが「経済の回復と繁栄」をもたらしたことを高く評価したものである。そして2は一転して、鄧小平路線から離反した今の習近平政権のことを念頭に入れて、覇権主義政策と強硬外交の推進に走る一方、民間企業を虐めることで中国経済を大きく後退させた習近平政策を暗に批判しているのではないかと思われる。
こうした上で3は、「経済建設を持って中心点とする」という言葉を持ち出して「経済安全」の重要性を強調しているが、実はここの「経済建設を持って中心点とする」という言葉こそは鄧小平時代を象徴するキャッチフレーズであって、鄧小平時代から胡錦濤時代までの共産党政権の諸政策の基本の中の基本である。
従って国家安全部論評は、まさに「経済建設を中心点とする」鄧小平路線を持ち出して、経済よりも国家安全を重んじる習近平路線を暗に批判しているのではないかと解釈できる。もしそうであれば、軍と公安警察に続いて、秘密警察も「習近平離れ」を始めたことになるわけであるが、それはまた、国内政治における習近平の地位失墜の兆候の一つだと見ることもできよう。
「習近平思想」、屈辱の扱い
言論の面で、習近平主席軽視の流れはこれにとどまらない。軍や警察での習主席の影響力の低下と並行するように、「習近平思想」の扱いが、従来の最高指導者に対する礼遇を取らないようになっていることが、明らかになってきているのである。政権内の習主席側近らは懸命に主張を続けているが、もはや劣勢は覆うべくもないようだ。
例えば、2月24日、『党の建設に関する習近平総書記の重要思想概論』という書籍の出版座談会が北京で開かれた。そこで一つ、信じられないほどの異変が起きている。
主催は「全国党建研究会」。翌日の人民日報記事によると、党と国家の各中央機関の党建研究会の責任者や専門家が座談会に参加したという。しかし、この座談会の主催者はまず党と国家の中央機関では全くない。共産党中央組織部傘下の外郭団体であって、半官半民の社団としての研究会である。
今までの前例からすれば、このような格式の低い一外郭団体が「習近平思想」関連の座談会を主催すること自体、異例にして異様なことであるが、さらに驚いたのは、この座談会に党と政府の高官が参加することもなく、主催者の「全国党建研究会」の上級機関である党中央組織部の部長や副部長の参加すらないことだ。
習近平政権2期目に「習近平思想」たるものが登場して以来、「習近平経済思想」や「習近平文化思想」などの「習近平◯◯思想」をテーマとする「習近平著作」、あるいは「◯◯に関する習近平論述」などの書籍が大量かつ頻繁に刊行されてきたが、そしてその都度、何らかの中央機関が必ずや出版座談会を開き、党と政府の高官が出席して「講話」を行うのは今までの慣例である。
例えば2022年7月11日に『習近平経済思想学習綱領』の出版座談会が開かれたが、主催したのは共産党中央宣伝部と国家発展改革委員会、国家発展改革委員会主任の何立峰氏が出席して講話を行なった。22年9月1日に『習近平が治国理政を語る』(第4巻)が出版された際、政治局常務委員の王滬寧氏、当時の政治局委員・副首相の丁薛祥氏は出席した。
一番直近の例は昨年12月30日に北京で開かれた『習近平文化思想学習綱領』出版記念会であるが、その時の主催者は共産党中央宣伝部、中央宣伝部の李書磊部長が出席して講話を行なった。
上述のような過去の出版座談会と比べれば、この「『党の建設に関する習近平総書記の重要思想概論』出版座談会の異様ぶりが実に顕著である。
本来、座談会のテーマとなる、「党の建設」に関する「習近平重要思想概論」は「習近平経済思想」や「習近平文化思想」などよりも重要度の高いものであるはず。しかし、この処遇は、「習近平軽視」というよりも、もはや「習近平侮辱」の域に達している。独裁者の習近平氏はつい、このような屈辱的な待遇を受けこととなった。
中央組織部のトップである政治局委員の李幹傑氏は清華大学では習近平氏の後輩に当たり、いわば「習近平派」の一員だと思われるから、これほどの「習近平侮辱」を行なったのは彼の差し金であるとは思えない。こうなったことの背後にはより大きな力が動いているのではないかと思われる。
言論の面で、習近平主席軽視の流れはこれにとどまらない。軍や警察での習主席の影響力の低下と並行するように、「習近平思想」の扱いが、従来の最高指導者に対する礼遇を取らないようになっていることが、明らかになってきているのである。政権内の習主席側近らは懸命に主張を続けているが、もはや劣勢は覆うべくもないようだ。
例えば、2月24日、『党の建設に関する習近平総書記の重要思想概論』という書籍の出版座談会が北京で開かれた。そこで一つ、信じられないほどの異変が起きている。
主催は「全国党建研究会」。翌日の人民日報記事によると、党と国家の各中央機関の党建研究会の責任者や専門家が座談会に参加したという。しかし、この座談会の主催者はまず党と国家の中央機関では全くない。共産党中央組織部傘下の外郭団体であって、半官半民の社団としての研究会である。
今までの前例からすれば、このような格式の低い一外郭団体が「習近平思想」関連の座談会を主催すること自体、異例にして異様なことであるが、さらに驚いたのは、この座談会に党と政府の高官が参加することもなく、主催者の「全国党建研究会」の上級機関である党中央組織部の部長や副部長の参加すらないことだ。
習近平政権2期目に「習近平思想」たるものが登場して以来、「習近平経済思想」や「習近平文化思想」などの「習近平◯◯思想」をテーマとする「習近平著作」、あるいは「◯◯に関する習近平論述」などの書籍が大量かつ頻繁に刊行されてきたが、そしてその都度、何らかの中央機関が必ずや出版座談会を開き、党と政府の高官が出席して「講話」を行うのは今までの慣例である。
例えば2022年7月11日に『習近平経済思想学習綱領』の出版座談会が開かれたが、主催したのは共産党中央宣伝部と国家発展改革委員会、国家発展改革委員会主任の何立峰氏が出席して講話を行なった。22年9月1日に『習近平が治国理政を語る』(第4巻)が出版された際、政治局常務委員の王滬寧氏、当時の政治局委員・副首相の丁薛祥氏は出席した。
一番直近の例は昨年12月30日に北京で開かれた『習近平文化思想学習綱領』出版記念会であるが、その時の主催者は共産党中央宣伝部、中央宣伝部の李書磊部長が出席して講話を行なった。
上述のような過去の出版座談会と比べれば、この「『党の建設に関する習近平総書記の重要思想概論』出版座談会の異様ぶりが実に顕著である。
本来、座談会のテーマとなる、「党の建設」に関する「習近平重要思想概論」は「習近平経済思想」や「習近平文化思想」などよりも重要度の高いものであるはず。しかし、この処遇は、「習近平軽視」というよりも、もはや「習近平侮辱」の域に達している。独裁者の習近平氏はつい、このような屈辱的な待遇を受けこととなった。
中央組織部のトップである政治局委員の李幹傑氏は清華大学では習近平氏の後輩に当たり、いわば「習近平派」の一員だと思われるから、これほどの「習近平侮辱」を行なったのは彼の差し金であるとは思えない。こうなったことの背後にはより大きな力が動いているのではないかと思われる。
追い詰められた習近平側近の異様な焦り
その一方、最高指導部にいる習近平側近の面々の最近の言動にも異様さを感じさせるものがある。例えば政治局常務委員・政治協商会議主席、「習近平思想」の生みの親である前述の王滬寧氏は2月26日、「2025年対台湾工作会議」に出席して「重要講話」を行なったが、その中で彼は、殊更に「“二つの確立”の決定的な意義」を強調し「習近平擁護」を展開したことは特に注目すべきである。
「二つの確立」とは要するに、「習近平主席の指導的地位の確立、習近平思想の指導理念としての確立」であるが、それは本来、共産党政権内の話であって、「対台湾工作」とは何の関係もない。それでも王氏は、こうした場違いの「習近平擁護」をあえて展開したのにはむしろ、習近平の地位の低下に対する側近の焦りを感じさせる。
実際、習近平最側近の蔡奇政治局常務委員は2月20日、「全国社会工作部会議」で行なった中で上述の王氏と同じ表現で「“二つの確立”の決定的な意義」に言及したし、もう一人の側近、政治局常務委員・規律検査委員会書記の李希氏も2月25日、「規律検査」関連の会議でも「“二つの確立”への断固たる擁護」を口にした。彼らの「焦り」はもう見え見えである。
その一方、最高指導部にいる習近平側近の面々の最近の言動にも異様さを感じさせるものがある。例えば政治局常務委員・政治協商会議主席、「習近平思想」の生みの親である前述の王滬寧氏は2月26日、「2025年対台湾工作会議」に出席して「重要講話」を行なったが、その中で彼は、殊更に「“二つの確立”の決定的な意義」を強調し「習近平擁護」を展開したことは特に注目すべきである。
「二つの確立」とは要するに、「習近平主席の指導的地位の確立、習近平思想の指導理念としての確立」であるが、それは本来、共産党政権内の話であって、「対台湾工作」とは何の関係もない。それでも王氏は、こうした場違いの「習近平擁護」をあえて展開したのにはむしろ、習近平の地位の低下に対する側近の焦りを感じさせる。
実際、習近平最側近の蔡奇政治局常務委員は2月20日、「全国社会工作部会議」で行なった中で上述の王氏と同じ表現で「“二つの確立”の決定的な意義」に言及したし、もう一人の側近、政治局常務委員・規律検査委員会書記の李希氏も2月25日、「規律検査」関連の会議でも「“二つの確立”への断固たる擁護」を口にした。彼らの「焦り」はもう見え見えである。
政治局常任委員会は分裂、そして優勢なのは…
その一方、習近平擁護の「二つの確立」にいっさい言及しない最高指導者のメンバーもいる。政治局常務委員の李強首相は2月20日と21日の連続2日間、「国務院常務会議」「国務院学習会」を主催し講話を行なったが、その中で彼は「二つの確立」にいっさい触れなかった。元側近である李氏の「習近平離れ」はすでに明々白々なものである。
もう一人、習近平派でもなければ反習近平派でもなく、最高指導部における中間派でバランサー役の全人代委員長である趙楽際氏は2月25日、「全人代大14回会議の閉幕会」を主宰して講話を行なったが、その中では彼はやはり、例の「二つの確立」にいっさい言及していない。
言ってみれば今の共産党最高指導部の政治局常務委員会は、習近平に対する態度で真っ二つに分けられ、「習近平擁護派」と「習近平離れ派」の違いと分裂は鮮明になっているのである。
今のところ、政治局常務委員会において習近平擁護派は依然として多勢であるが、「習近平離れ派」は何の躊躇もなく習近平に対する冷淡な態度を公然と示している点からすれば、最高指導部においては少数派である彼らの背後には、党と軍における強固な支持勢力が控えていることがよく分かる。
両派の勢力の消長こそが、習近平の命運と今後の中国政治の方向性を決めていくのである>(以上「現代ビジネス」より引用)
その一方、習近平擁護の「二つの確立」にいっさい言及しない最高指導者のメンバーもいる。政治局常務委員の李強首相は2月20日と21日の連続2日間、「国務院常務会議」「国務院学習会」を主催し講話を行なったが、その中で彼は「二つの確立」にいっさい触れなかった。元側近である李氏の「習近平離れ」はすでに明々白々なものである。
もう一人、習近平派でもなければ反習近平派でもなく、最高指導部における中間派でバランサー役の全人代委員長である趙楽際氏は2月25日、「全人代大14回会議の閉幕会」を主宰して講話を行なったが、その中では彼はやはり、例の「二つの確立」にいっさい言及していない。
言ってみれば今の共産党最高指導部の政治局常務委員会は、習近平に対する態度で真っ二つに分けられ、「習近平擁護派」と「習近平離れ派」の違いと分裂は鮮明になっているのである。
今のところ、政治局常務委員会において習近平擁護派は依然として多勢であるが、「習近平離れ派」は何の躊躇もなく習近平に対する冷淡な態度を公然と示している点からすれば、最高指導部においては少数派である彼らの背後には、党と軍における強固な支持勢力が控えていることがよく分かる。
両派の勢力の消長こそが、習近平の命運と今後の中国政治の方向性を決めていくのである>(以上「現代ビジネス」より引用)
中国評論家石 平(評論家)氏の続編が掲載された。題して「中国で習近平の「権力失墜」が止まらない」~最高権力者なのに失政の弁明に追われ、最高指導部では少数派に」というもので、習近平氏の退潮が確実になっているようだ。
ポスト習近平氏が誰になるのか、という政権内のゴタゴタは興味ない。それは中共政権が倒れて民主化する、ということではないからだ。民主化しない中国は日本にとって依然として脅威だからだ。
むしろ興味は経済崩壊が社会的な混乱を引き起こして、ついに中国民が「自由、人権」を求めて政権打倒に動くか否かにある。
確かに経済は崩壊しつつある。不動産バブル崩壊後、中共政府は手を拱いて不動産の不良債権を積極的に確定することなく、むしろ放置してきた。それによりバブル崩壊後の不動産価格の下落は止まることを知らず、地域によっては80%↓まで到っているという。
中共政府による不動産企業の不良債権処理を先延ばししたことによって、金融機関は不良資産を抱えたまま信用取引縮小に向かわざるを得ず、市中マネーサプライが縮小した。それにより経済はデフレに陥り、ますます国民所得も減少した。
これにより中国経済は不動産バブル崩壊による不況から、国家全体のB/S不況へと深刻な状況に陥った。企業のみならず国民の多くも債務超過に陥り、債務超過は当然ながら金融機関が大量の不良資産を抱え込み信用創造(新規貸し出し)が不可能になった。そうした状況を金融崩壊と呼ぶ。
現在の中国経済の病理はこの段階に達している。そうすると政府による速やかな財政出動と公的債務処理が必要だが、中共政府そのものもバブル崩壊の最中にある。国民経済規模に見合わない膨大な軍事支出や採算性を度外視した中国高速鉄道など、中共政府は無茶苦茶な政府投資を行い、国家財政も破綻の瀬戸際にある。
もはや中共政府に打つ手はない。そうすると国家破産を宣告して、「元」を紙屑にしてB/S全体を実体経済に合わせるしかない。新しく貨幣を発行して国家財政を一から再建するしかないが、その場合は国民が新貨幣を信認しなければならない。だが中国民は中共政府も「元」も信用していないため、世界中の「金」を買い集めているのだろう。
中国に対する私の興味は習近平体制が転覆するか否かではない。習近平体制が持たないのは明らかだ。私の興味は中国共産党の一党独裁体制が続くのか、それとも中国民が蜂起して民主化政権が樹立されるのか否かだ。
そのための人材が中国にいるのか。外国へ亡命した中国の人権派活動家たちが再び中国の土を踏んで活躍できる素地が現在の中国にあるのか。そうしたことに、私の興味は移っている。