「NHKのテロ中国人」は日本への誤解が原因なのか?

中国籍キャスター放送事故
 周知のように、8月19日に、NHK国際放送で放送事故が発覚した。中国籍の契約キャスターが中国語の放送中に、原稿と無関係な発言をし、「釣魚島(尖閣諸島)は中国の領土だ」などと主張した。また英語で、慰安婦問題や南京大虐殺などにも触れて、中国政府の立場に沿って発言した。NHKは謝罪し、中国籍のキャスターとの契約を解除した。
 日本では、国民から政治家まで憤慨した。国民民主党の玉木雄一郎代表は「わが国の立場とまったく相いれない主張を、日本の公共放送であるNHKがしたことは重大だ。速やかに実態を調査させ、国会や国民への報告を求めていきたい」と述べた。
 こうした一連の経緯を見ていて、日本側の非難が、NHKに集中していることが気になる。もう少し事件の裏側も追及すべきではないか。
 8月26日、中国のSNS「微博」(Weibo)で「元NHKの中国籍職員(実際には外部契約会社のスタッフ)」と名乗る人物が、堂々と登場した。そして次のように綴った。
<ゼロに返った。国に帰った。平安だ。もう思うなかれ。
22年、22秒(22年の日本滞在と22秒の放送)。
深く信じる中、ある種の力が湧く。
答えないが、すべてを濃縮した22秒だった。
あらゆる真実と真相が含まれている、
過去、現在、ないしは未来も。
身を挺して出ることを選択したからには、
必ずや平然と相対していく>

「元NHK中国籍職員」?

 この人物は「微博」の実名認証を得て、「元NHKの中国籍職員」と書いた。NHK国際放送で事故を起こした張本人に間違いない。アップした当日、「いいね」や転送などは8万回を超えた。その後も「微博」で、下記のように日本を批判し続けている。
<日本のマスコミは歴史の真相を隠すだけでなく、中国の発展の実情も懸命に隠している>
 放送の出演者の身分を使って、公共の電波を乗っ取り、その後ただちに出国。そして中国に帰国するや、自身の「微博」を開設し、多くのフォロワーを得た。これは明らかに、計画的な「犯行」だ。
 この人物は、NHKと並行して、香港の「鳳凰衛視」(フェニックステレビ)でも報道の仕事をしていた。
 本人は日本で、22年間もNHKなどの仕事をしてきたと言う。それがなぜ、今になって反日的な行動を取ったのか。
 私は日本政府が、真相究明のためにも、事件後の彼の出国を予想して、早急な措置を取るべきだったと考える。人権を配慮し、身柄の拘束とまではいかないにしても、出国禁止にはすべきだった。
 NHKも、国民や政治家にお詫びばかりしていないで、この人物が「元NHK中国籍職員」という「偽の身分」を名乗っていることに抗議したり、否定の会見を開いたりするべきだ。そうでないと、この人物が中国国内で繰り広げる日本批判は、信憑性があると中国で思われてしまう。

増加傾向の反日行動
 また、この事件を本気で調査するには、NHKだけに任せていてはダメだ。事件の再発やさらなる反日行動が取られないよう防止措置を取る必要がある。
 実際、領土問題や歴史問題に関して、中国人の反日行動は増えている。8月13日に、卓球日本代表の早田ひな選手が、パリ五輪後の記者会見で、(鹿児島県)知覧の特攻平和会館を見学したいと話した。中国人はこれにただちに反応し、バッシングや批判が殺到した。東郷神社を参拝した元卓球日本代表の石川佳純さんも、同様の攻撃をうけた。
 こうしたことによって、それまで和気あいあいだった日中両国の卓球選手の間に、亀裂が生じた。中国人卓球選手たちも豹変し、早田ひな選手など日本人選手へのSNSのフォローを外して、自己の立場を表明した。これは中国政府への忖度(そんたく)からであろう。
 知覧特攻平和会館も東郷神社も、日中戦争(1937年~1945年)の時の中国への侵略行為とは関わりがなかった。当時の日本の対中侵略は否定できないが、現在の中国の民族主義者たちは、歴史の事実よりも、中国政府の方針を気にしている。
 例えば、中国共産党中央委員会機関紙の『人民日報』が、米国を批判する文章を掲載したとする。それを読んだ民族主義者たちは、「わかった、今日から反米だ」と言う。
 数日後、もしも『人民日報』が北朝鮮を批判する記事を一面に掲載したなら、彼らは「わかった、今日からは北朝鮮を攻撃して、反朝(北朝鮮)だ」と言うだろう。
 これは、海外に住む中国人がよく語るジョークの一つである。だが、中国の民族主義者の実態でもある。盲従的で功利的でありながら、事実には無関心で無知だ。日中関係においても、歴史問題や領土問題が絡むと、中国の民族主義者にとって、日本はまさに恰好の攻撃対象となる。

蔓延する日本への誤解
 私は今年初め、中国のある都市で、一人の知識人の男性に日本のことを聞かれた。すでに定年を迎えている彼は、「日本人は中国に対して、ほかの国とは少し違うようだね」と切り出した。よく聞くと、「日本人は侵略を反省しないし、謝罪も賠償もしない。中国人を見下している」などと言う。
 その根拠として、靖国神社への参拝や、福島の処理水の問題などを挙げている。しかし、靖国神社には誰の位牌もないこと、日本の天皇はA級戦犯の合祀以降は一度も参拝したことがないこと、現職の総理大臣は参拝を止めていること、侵略戦争に対する謝罪の気持ちから日本政府が巨額の実質的な援助を中国に与えたこと、そうした諸々を、彼は全く知らなかった。
 彼は知識人であるがゆえに、私に反論され驚きを隠せなかった。その戸惑った表情を見ると、日本人と中国人の認識にこれほどの差があるのかと、改めて実感させられた。
 中国人が日本をあまりにもよく知らないのは、中国政府の情報統制に根がある。だから多くの中国人は、日本が中国を侵略した事実はよく知っているが、戦後の日本に関しては無知だ。日本を心から嫌い、恨む中国人は少なくない。
「日本は中国に対して、約3兆3165億円の有償資金協力(円借款)、約1576億円の無償資金協力、約1858億円の技術協力を行った」と、日本外務省は公表している。しかし、中国ではこの事実はあまり知られていない。日本は戦争を反省していないと、多くの中国人は思っている。
 さらに、これらの支援金がどのように使われたかに関して、中国での報道は乏しい。日本でもあまり報道されなかった。
 かつて日本政府は中国政府に対して、空港などの施設が円借款で作られた場合、日本の支援だと施設に明記するよう要望したが拒否されたと、元日本外務省の外交官から聞いたことがある。日本の中国への支援活動は多岐にわたるが、いまだに多くの中国人に知られないままである。
 だが、いまからでも遅くはない。円借款を含めた多くの対中支援を、中国国内で周知徹底するよう、日本政府は中国政府に要求すべきだ。たとえ拒否されたとしても、「拒否したこと」がニュースになれば、事実は広く知られることになる。事実を知れば、中国人の対日感情は和らぐと思う>(以上「現代ビジネス」より引用)





「NHKのテロ中国人」が中国へ帰って言いたい放題」と林愛華(評論家)氏がNHKラジオ放送で事実と異なる放送をした中国籍の男のことを取り上げた。この件は国会でも取り上げられて、NHK幹部が吊るしあげられていたが、中国籍の男をみすみす出国させた警察・公安当局の失態に関して誰も追求しないのは何故だろうか。
 そもそも「NHKのテロ中国人」は日本への誤解が原因なのだろうか? 誤解ではなく、日本に対する確信が彼をしてそうさせたのではないだろうか。その確信とは中共政府が主導している反日だ。

 日本政府はなぜ駐日中国大使を呼んで公式に抗議しないのだろうか。1972年9月27日中国の毛沢東主席と日本の田中角栄首相が握手を交わし、中国と日本が長かった「戦争状態」を終わらせ、正式に国交を正常化することが最終的に確定した。
当時の経緯を横堀克己氏が残した記録より引用する。
周総理の細かい心配り
 田中首相一行が泊まっていた釣魚台の迎賓館に、毛主席が会うとの知らせがあったのは、一行が中国を訪問してから三日目の夕刻だった。その知らせは「突然やってきた」と、日本側は受け止めている。大平外相の回想によると、招かれたのは田中首相、大平外相だけだったが、日本側の要望で二階堂長官も加わることになり、三人は車で迎賓館を出発した。
 田中首相の一行は9月25日に北京空港に着き、ただちに田中首相と周総理による第一回首脳会談が開催された。26日には第二回会談が、27日には第三回会談が挙行されたが、中国の最高指導者の毛主席はずっと姿を見せなかった。第三回会談の直後、毛主席が会見するということは、交渉が基本的にまとまったことを予感させるものであった。
 当時、外交部アジア局に勤めていた王效賢さんと、中聯部(中国共産党中央対外連絡部)で働いていた林麗ウンさんは、自宅に帰っている暇はなかった。二人とも、その他の中国側のスタッフとともに、交渉が行われた人民大会堂の中にある部屋に泊り込んで仕事をしていた。第三回会談が終わったあと、突然二人は「これから毛主席のところに行く」と告げられた。
 「周総理が自ら『私の車に乗りなさい』と言い、人民大会堂から高級乗用車の『紅旗』で、中南海にある毛主席の住居に向かいました。前の座席に運転手と護衛が乗り、後ろの座席に周総理と私たちが乗ったのです」と二人は言う。
 周総理は、事務方で働く人たちに細かい心配りをする人であった。林さんは、以前にも周総理の車に乗せてもらったことがあった。
 それは1956年、日本・神戸で教育を受けたあと、「祖国建設のため」中国に帰国した林さんが、初めて毛主席の通訳をしたときのことである。それまでは中聯部の趙安博氏が毛主席の通訳を勤めていたが、この日、突然、通訳せよと言われたのだ。だが毛主席の言葉は、湖南の訛りが非常に強く、同じ中国人でも、慣れないとよく聞き取れない。
 「一瞬、頭が真っ白になって、なにがなんだかわからなくなってしまった。するとそばにいた周総理や廖承志会長が、『小姑娘、落ち着いて』と励ましてくれたのです。西郊賓館での会議の後、中南海へ戻るとき、周総理が自分の車に乗せてくれました。夕暮れの西単の十字路にさしかかると、時計塔の時報が聞こえてきました。それを今でもはっきり覚えています」と林さんは当時を振り返る。
 王さんもまた、周総理の心配りを思い出す。
 日本との国交正常化交渉が始まる少し前、王さんは林さんといっしょに、毛主席と周総理が話し合う場に連れていかれた。「毛主席の言葉は難しいので、耳ならしをしておいたほうが良い、という周総理の配慮だった。そういうチャンスが二回ありました。おかげで交渉が始まるときには毛主席の言葉はよくわかるようになっていました」と言うのである。

主席のユーモアが空気を変えた
 周総理と王さん、林さんを乗せた『紅旗』は、中国の指導者たちが住み、執務する中南海にすべり込んだ。
 会見場所は毛主席の住まいの中にある書斎だった。毛主席をはじめ中国側の要人はすでに書斎の中にいた。毛主席と周総理、姫外相は薄いグレーの中山服、廖会長だけが濃いグレーの中山服を着ていた。毛主席は顔色もよく、足取りもしっかりしていた。
 壁の書棚は、中国の古い書籍でいっぱいだった。毛主席はすでに読んだ本に白く小さな付箋をつけていた。大きなスタンドの灯りはこうこうと輝き、部屋はとても明るかった。床には赤い絨毯が敷かれ、椅子には薄いピンクのカバーがかけられていた。九月末なのに暑い夜だった。
 「書斎といってもとても広々としていた。声が聞こえないといけないので、私たち二人は椅子を動かして、毛主席に近いところに座りました」と林さんはいう。
 それからどれほどの時間が経ったか、はっきりしない。午後八時、田中首相の一行が到着した。
 「毛主席は田中首相を迎えるため、部屋の外に出て、立って待っていました。田中首相は顔の汗をハンカチで拭きながらやってきました。二人はしっかりと握手し、それを中国のカメラマンがフラッシュをたいて写しました。撮影は一回だけでした」と王さんは回顧する。
 田中首相は毛主席に大平外相を紹介し、二人は握手を交わした。そのときである。毛主席が「天下大平」と言ったのだ。「大平」を「太平」にかけたのだ。林さんはこれを「天下泰平ですね」と訳した。この当意即妙のユーモアに、笑い声が起こった。最初は厳粛な顔をしていた田中首相の顔がほころび、それ以後、和気あいあいとした雰囲気となった。
 テーブルには杭州の竜井茶が入れられた。愛煙家の毛主席だったが、タバコに手を出さなかった。暑がりで有名な田中首相も、このときばかりは愛用の扇子を取り出さなかった。

「喧嘩はすみましたか」
 会談が始まった。最初に口を開いたのは、毛主席だった。後に有名となるあの言葉である。中国語ではこう言った。
 「チャオ(口に少)完架了マ?総是要チャオ一些的。天下没有不チャオ架的嘛」
 (喧嘩はもうすみましたか。喧嘩は避けられないものですよ。世の中には喧嘩がないわけはないのです)
 二階堂長官のブリーフィングでは、最後の一句はなく、「喧嘩してこそ初めて仲良くなれます」と言ったことになっている。
 「喧嘩」とは何を意味するのか。それは国交正常化に当たって、戦争の終結をどう宣言するか、台湾をどう位置付けるか、などを巡って中日間に大きな意見の隔たりがあり、首脳会談で激しい論戦が交わされたことを指す。
 これに対し田中首相は「少しやりました。しかし、問題は解決しました」と答えた。三回目の首脳会談で、双方が知恵を出し合い、大筋で合意を見たことを述べたのだった。
 すると毛主席は、大平外相と姫外相を見やりながら「ト續c他打敗了ーノ」とユーモアをこめて尋ねたのだ。「あなたは、相手を打ち負かしたのですね」というわけだ。
 大平外相はあわてて答えた。「いいえ、打ち負かしてはいません。我々は平等です」。こういい終わるや、大平、姫両外相は声を合わせて笑った。
 周総理がこの会話をひきとって「両国外相很努力」と言った。「両国の外相はともに大変よくがんばった」とその労をねぎらったのである。田中首相もこれに続けて「両国の外相は、大変努力して、多くの仕事を成し遂げました」とたたえた。
 すると毛主席は、姫外相を指差しながら「他是周文王的后代」と言った。「彼は周の文王の末裔だ」というのである。
 周の文王は、周王朝の基礎を作った名君と言われ、姓は姫、名は昌といい、太公望呂尚をはじめ多数の人材、賢者がその下に集まったことで知られている。周の勢いを恐れた殷の紂王のために捕らえられたこともあるが、虞とワヌの両国の争いを裁いてから勢力を伸ばした。在位五十年といわれ、その子の武王が天下を取る基礎を築いた人物である。
 歴史に詳しい毛主席らしい、人物紹介である。
 すると周総理が「周文王姓姫 他不姓我這個周」と言った。「周の文王の姓は姫で、私のような周姓ではありません」ということだ。「これを聞いてみんなが笑った」のを王さんは覚えている。
 周総理がこう言った理由は何か。中国の歴史や氏姓に詳しくない日本側に、毛主席の発言の意味を解説したのか、それにとどまらず、もっと深い含意があったのか、それはよくわからない。周総理は、自分は周の文王のような人物でない、と謙遜したのではないだろうか。

「添了麻煩」はどうなった
 今度は廖会長の話になった。二階堂長官の話では「毛主席は廖会長を指差しながら『彼は日本で生まれたので、今度帰る際にはぜひ連れていってください』といい、田中首相が『廖承志先生は日本でも非常に有名です。もし参議院全国区の選挙に出馬されれば、必ず当選するでしょう』と応じた」という。
 王さんも廖会長に関してこういう趣旨の話があったことを確認している。当時の参議院は、全国区と地方区に分かれていて、全国区の候補者は、知名度の高い人物が当選しやすい制度だった。
 この後、中華料理や中国茶、テゥ台酒の話になったという。田中首相が「テゥ台酒は六〇度といわれますが、とてもおいしい」と言うと、毛主席が「誰が六〇度と言いましたか。テゥ台酒は七五度ですよ」と応じ、さらに中国の歴史の話や日本の選挙などについて「ユーモアを交えた和やかなやりとりが続いた」と二階堂長官は紹介している。だが、王さんも林さんも、こうしたやりとりを覚えていない。
 しかし、二階堂長官が言わなかった重要なことを、二人はしっかり記憶していた。それは「添了麻煩」(迷惑をかけた)に関するやりとりである。
 毛主席が「添了麻煩的問題 怎マ解決了」(「添了麻煩」の問題はどうなったのか)と言い出したのだった。そして書斎の後ろの方に控えていた毛主席の英語の通訳で、若い女性の唐聞生さんを指差しながら「女同志有意見」(彼女たちは文句を言っているのです)と言ったのだった。しかし毛主席の口調は、厳しいものではなく、穏やかだった。
 「添了麻煩」の問題は、田中首相が中国訪問の初日に、人民大会堂で開かれた歓迎宴で、こう演説したことに端を発する。
 「過去数十年にわたって日中関係は、遺憾ながら、不幸な経過をたどってまいりました。この間、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものであります」
 日本側通訳が「多大のご迷惑をおかけした」を「添了麻煩」と中国語に訳したとき、宴会場にざわめきが起こった。中国側の日本語通訳を担当していた林さんに、英語の通訳の唐さんが「『添了麻煩』なんて軽すぎるのではないの」とささやきかけたのだ。
 確かに「添了麻煩」という表現は、「女性のスカートに水をかけてしまったときに使われる」程度の軽い言葉とされている。「周総理もこれを聞いて憤慨した」と、周総理周辺にいた人たちは証言している。日本の侵略による戦争でもたらされた被害と責任について日本側がどう認識しているかを、この表現は端的に示していた。だから首脳会談では、これをめぐって激しい議論が交わされてきたのである。
 毛主席のこの問いに大平外相が答えた。「これは、中国側の意見に従って改め、解決しました」
 確かに中日双方の激しい議論の末、九月二十九日発表された『共同声明』では、「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国人民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記されたのだった。日本側が「添了麻煩」という表現をやめ、中国側の主張に歩み寄ったことは明らかだ。
 二階堂長官は、「政治的な話はなかった」と言ったが、これこそまさに政治的なやりとりだった。
 だが、二階堂長官の苦労も察してあげなければならないだろう。この時点では、双方の意見は大筋で合意に達したものの、『共同声明』の文言をめぐって最終的な詰めの作業がまだ続いていた。それが随行記者団に漏れれば、思わぬ結果を引き起こすかもしれない、と心配したに違いない。
 一時間に及ぶ会見は、和やかな雰囲気のうちに終わりに近づいた。
 毛主席は、書棚の中から糸とじ本の『楚辞集注』六巻を取ってくるよう服務員に言いつけ、立ち上がってそれを田中首相に手渡した。『楚辞集注』は、楚の宰相であり詩人でもあった屈原らの辞賦を集めた『楚辞』に、南宋の学者、朱熹が注釈を付けたものである。
 なぜ『楚辞集注』を贈ったのか。さまざまな憶測が流れた。「屈原に引っかけて、国民の利益のため決然として訪中した田中首相の愛国心を称えたのだ」という見方もあった。真相はよくわからない。しかし「主席はこの本が大好きだったからに違いありません」と王さんはみている。
 毛主席は、田中首相が強く固辞したにもかかわらず、書斎から玄関まで一行を見送りに出た。毛主席の足取りは速く、遅れまいと、林さんは小走りについて行ったという。
 こうして「歴史的な会見」は終わった。

原点に帰れ
 あれから三十年。中国と日本はそれぞれ発展し、中日関係も貿易や人の往来の面で飛躍的な伸びを見せた。しかし、教科書問題や歴史認識、靖国神社への首相の参拝などで、中日関係に波風が立っている。
 「歴史的会見」に同席した王さんと林さんは、いま、何を考え、どんな教訓を引き出しているだろうか。
 王さんはこう言う。「中日両国はどんなことがあっても戦争してはいけない。戦争で被害を受けたのは両国の人民であり、ごく少数の日本軍国主義者とは区別すべきだ。歴史を過去のものにし、前に向かって進む必要がある。そのためには、日本は過去の侵略の歴史を承認し、反省する。そこに『中日共同声明』の原点がある。教科書問題などが起こるたびに『原点に帰れ』と私は思う」
 林さんはこう言う。「周総理は、『飲水不忘掘井人』と言われた。今日の中日関係を考えるとき、その井戸を掘った人たちの苦労を忘れてはいけない。国交正常化に到るまでも、民間交流が大きな役割を果たした。民間大使と言われた西園寺公一先生は、国交正常化が実現するまで禁煙を続け、『共同声明』が発表されてからタバコに火をつけて、おいしそうに一服吸った。国交正常化という仕事は、容易ではなかったのです」>(以上「その夜、新たな歴史がひらかれた…毛―田中会談を再現する」より引用)

 長々と日中国交当夜の記録を引用したのは、日本側と中国側の双方が和解し「「中日両国はどんなことがあっても戦争してはいけない。戦争で被害を受けたのは両国の人民であり、ごく少数の日本軍国主義者とは区別すべきだ。歴史を過去のものにし、前に向かって進む必要がある」と認識を共有したことを忘れてはならない、ということだ。
 繰り返される反日行為により、中国はどれほど得をしているだろうか。それは日本国民の多くが親中から、反中派になったことから明らかだろう。2023年10月の調査では日本人の92.2%が中国に対する印象を「良くない」「どちらかといえば良くない」と答え、2005年の調査開始以降で2番目に高い比率となった。昨年は87.3%だったというから処理水問題で中共政府が反日を煽ったことが対中感情を大きく棄損したようだ。

 日中戦争を乗り越えた田中角栄氏と毛沢東氏の握手を、現在の中共政府首脳は蔑ろにしている。反日プロパガンダを繰り広げて、中国にとって良いことは何もないことを認識すべきだ。

このブログの人気の投稿

それでも「レジ袋追放」は必要か。

麻生財務相のバカさ加減。

無能・無策の安倍氏よ、退陣すべきではないか。

経団連の親中派は日本を滅ぼす売国奴だ。

福一原発をスーツで訪れた安倍氏の非常識。

全国知事会を欠席した知事は

安倍氏は新型コロナウィルスの何を「隠蔽」しているのか。

自殺した担当者の遺言(破棄したはずの改竄前の公文書)が出て来たゾ。

安倍ヨイショの亡国評論家たち。