林語堂が現在の日本を見れば、どのような皮肉を書き記すだろうか。

<1945(昭和20)年から数えて79回目の「8月15日」を1日前にした8月14日午前、岸田文雄首相は9月に予定されている自民党総裁選への出馬断念を唐突に表明した。致命的とも言える不人気にもかかわらず、あれほどまでに総裁選再出馬に拘泥する姿勢をみせていただけに、岸田首相を取り囲む政治環境において、その“志”を挫くほどに衝撃的で決定的な異変があったと類推するしかない。
 岸田首相は総裁選不出馬を決意するに到った動機として、「自らが身を引くことで自民党の再生を目指す」「『オール自民党』でドリームチームを作って信頼回復を目指す」といった趣旨を語っていた。だが岸田首相1人が身を退いたからといって、列島全体を覆うほどの不信感が払拭され、党勢が急速にV字回復すると期待するのは非現実的に過ぎる。政党としての自民党の劣化は、それほどまでに深刻で危機的と考えるべきだ。
 岸田首相を筆頭に与野党問わず、多くの政治家は自らの日々の振る舞いを真摯に顧みることなく、まるで他人事のように国民の「政治不信」を口にし、問題視する。だが国民の素朴な感情に即するなら「政治不信」ではなく、与野党を問わず個別具体的に名前を言い当てる必要もないほどに日常化した「政治家不信」というべきだろう。
 メディアもまた偶然か故意かは判然とはしないが、社会全般に渦を巻く「政治家不信」を「政治不信」と曖昧に“翻案”して報ずるばかり。こうして「政治家不信」の裏側で「メディア不信」もまた必然的に募ることとなる。これが我が国の政治を取り巻く悲惨で非生産的な現状だと考える。

「中国語文法」ならぬ「自民党語文法」
 「政治家不信」の原点と考えられる政治資金パーティー裏金疑惑が発覚した時、咄嗟に頭に浮かんだのは、20世紀の中国を代表する英語の使い手と評価され、また稀代の皮肉屋でも知られた林語堂(1895~1976年)が1935年にニューヨークで出版した『MY COUNTRY AND MY PEOPLE』(邦訳は『中国=文化と思想』鋤柄治郎訳、講談社学術文庫)だった。同書の中で林語堂は、「中国語文法」について次のように語っている。 
「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち、『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」
 これにヒトヒネリ加えるなら、自民党の政治資金パーティー裏金問題に関しては、次のように言い換えることができそうだ。
 《自民党語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞「キックバックを取る」の活用である。すなわち、「私はキックバックを取る。あなたはキックバックを取る。彼はキックバックを取る。私たちはキックバックを取る。あなたたちはキックバックを取る。彼らはキックバックを取る」であり、この動詞「キックバックを取る」は自民党語文法における規則動詞である》
 もちろん、「キックバックを取る」を「不正をする」に置き換えても問題はないはずだ。
 1世紀ほど昔の異国の民である林語堂が自国の権力者を皮肉った表現が、現在の我が国の政治状況を“予言”していたとは思えないが、「中国語文法」と「自民党語文法」の暗合に驚くしかない。

「政治家としての自民党議員の偉大さ」
 林語堂は「民族としての中国人の偉大さ」についても言及して、じつに興味深い指摘をしている。
 中国人は「勧善懲悪の基本原則に基づき至高の法典を制定する力量を持つと同時に、自己の制定した法律や法廷を信じぬこともできる」し、「煩雑な礼節を制定する力量があると同時に、これを人生の一大ジョークとみなすこともできる」。
 また「罪悪を糾弾する力量があると同時に、罪悪に対していささかも心を動かさず、何とも思わぬことすらできる」し、「革命運動を起こす力量があると同時に、妥協精神に富み、以前反対していた体制に逆戻りすることもできる」。
 さらには「官吏に対する弾劾制度、行政管理制度、交通規則、図書閲覧規定など細則までよく完備した制度を作る力量があると同時に、一切の規則、条例、制度を破壊し、あるいは無視し、ごまかし、弄び、操ることもできる」。
 ――ここまで引用して、「民族としての中国人の偉大さ」を「政治家としての自民党議員の偉大さ」に置き換えてみたら、と考えてみた。
 キックバック問題や裏金に絡む政治資金報告書記載漏れ問題、昨秋に話題となり大いに顰蹙を買った「エッフェル塔姉さん」、近畿地区の若手議員が昨年11月に開催したパーティーにおける「トンデモ破廉恥余興」。岸田首相自らが率先して臨んだ政治倫理審査会でのやり取り、さらには政治資金規制法改正にかかわる一連の論議にしても、その発端から幕引きまでの軌跡を振り返ってみるなら、彼らの振る舞いは「よく完備した制度を作る力量がある」と同時に、「一切の規則、条例、制度を破壊し、あるいは無視し、ごまかし、弄び、操ることもできる」との林語堂の指摘から、そう懸け離れてはいないように思える。

人情を法制の上に置いてはならない
 ならば、このような政治家の歪んだ振る舞いをどのように糾弾し、糺せばいいのか。林語堂は、次の処方箋を示した。
「中国が今必要としていることは政治家に対し道徳教育を行なうことではなく、彼らに刑務所を準備することである。〔中略〕中国が真に必要としているものは、仁や義でなければ名誉でもなく、単純明快な法による処罰である」
 かくて林語堂は「人情を法制の上に置いてはならない」と、強く主張する。
 これまで自民党議員が秘書給与詐取やら様々な利権に関連するスキャンダルへの関わりを報じられた際、自民党執行部やら岸田首相の“鶴の一声”で消え去ってしまった派閥の領袖や幹部連は「政治家の出処進退は神聖であるから、自らが決断すべきもの」と正論(タテマエ)を繰り返すことが常だった。テイのいい責任逃れだろう。
 疑惑が報道の段階を過ぎ、司直の手に委ねられる段階になり、本人が離党、あるいは議員を辞職するに及ぶや、「重い決断」と好意的な評価を示す。やがて時が過ぎ、次の総選挙が現実の政治日程に上る頃になると、“政治的みそぎ”を済ませたとして再び党公認となって出馬することになる。
 過去の事例を思い起こしてみても、やはり自民党の作風は林語堂の表現に倣うなら、人情を法制の上に置いている。たしかに惻隠の情という言葉もあるが、それが過ぎるからこそ「政治家不信」を招くことにつながるのではないか。
「政治村」の言葉は「素朴な常識を持つ人々」には理解されない
 林語堂が『MY COUNTRY AND MY PEOPLE』を出版した1935年の前後を振り返るなら、満洲事変(1931年)、上海事変・満洲国建国(1932年)、共産党の「大長征」(1934~36年)、西安事件(1936年)、盧溝橋事件(1937年)と激動の時代だった。
 彼は時代の荒波に翻弄されながらも強く生き抜く中国民衆の赤裸々な生活を描いた長編小説『大地』の作者で、1938年にノーベル文学賞を受賞したパール・バック(1882~1973年)の強い要請を受け、「素朴な常識を持つ人々のために本書を書いた」と「序」で明かす。
 林語堂が中国の「素朴な常識を持つ人々」に語り掛けてから1世紀余が過ぎ去ろうとしている現在の日本の政治状況に、『MY COUNTRY AND MY PEOPLE』の指摘が当てはまるのだから、やはり異様としかいいようはない。あるいは現在の自民党を取り囲む日本の政治状況は、1世紀ほど昔の混乱期の、それも無政府状態に近かった中国に通じるということだろうか。
 こう考えると、現在の我が国が陥っている政治の貧困・劣化は、想像を絶するほどに深刻なのかもしれない。あるいはそれは、政治報道に携わる新聞・TV記者、政治ジャーナリスト、政治アナリスト、TVのニュースショーに登場するコメンテーターやら専門家、さらには政治を研究する学者・研究者など――敢えて「政治村の住人」と括っておきたい――が分析し得々と語る程度を遙かに超えていると思える。
 じつは「政治村の住人」は仲間内でしか通じない特殊な日本語を、「彼らの文法」で話してからいるゆえに、現在の日本の「素朴な常識を持つ人々」には理解されないのだ。であればこそ我が国が落ち込んでしまった苦境を克服できるような処方箋は、「政治村の住人」であったとしても、おそらくは容易には書けないだろう。
 だが、だからといって国民の1人としては、敗戦直後の混乱期に太宰治が呟いたように「落ちるところまで落ちるしかない」と振起させる精神的強靱さを持ち合わせてはいそうにない。であるなら、ここは「素朴な常識」に立ち還るのが唯一確実な道だと強く思う。日暮れて道遠し、の感は否めないが>(以上「Wedge」より引用)




 樋泉克夫( 愛知県立大学名誉教授)氏は太宰治の言葉を用いて「日本は「落ちるところまで落ちるしかない」のか?」と読む者に突き付け「岸田首相交代では変わらない政治の貧困・劣化、中国・林語堂の皮肉から考える」と分析結果を説く。
 それは樋泉氏の深い絶望の論評でもある。誰が総裁になろうと、立候補する面々を眺めれば日本は「落ちるところまで落ちるしかないのか」と自問自答する他ない。それほど自民党の人材は払底しているし、政党としての自民党は賞味期限が過ぎようとしている。

 そして樋泉氏は林語堂の「中国語話法」を「日本語話法」に置き換えて、「私はキックバックを取る。あなたはキックバックを取る。彼はキックバックを取る。私たちはキックバックを取る。あなたたちはキックバックを取る。彼らはキックバックを取る」であり、この動詞「キックバックを取る」は自民党語文法における規則動詞である》と批判する。
 自民党語話法とは「「政治村の住人」は仲間内でしか通じない特殊な日本語」を話す人たちのことだ。そこでは「「人情を法制の上に置いて」いる。だからキックバックは明確な脱税行為だが、自民党語話法では「政治資金規正法に則り報告すれば罪に問われない」と事後に法適用するのは合法だ、ということになる。それは泥棒が金品を盗んでも、元に戻せば「罪に問われないだろう」と強弁するのと何ら変わらない。そうした子供にでも解る簡明に法律違反も、自民党国会議員諸氏にとって「何ら問題ない」ことになってしまう。

 よって樋泉氏は「だからといって国民の1人としては、敗戦直後の混乱期に太宰治が呟いたように「落ちるところまで落ちるしかない」」と思うが、自民党語話法の世界では「「落ちるところまで落ちるしかない」と振起させる精神的強靱さを持ち合わせてはいそうにない」と絶望的にならざるを得ない。
 なぜこのような自民党語話法の世界が形成されたのか、それは一貫した世襲議員の世界の中で純粋培養された世襲議員の世襲議員による世襲議員のための自民党に成り果ててしまったからだ。だから他の世界から飛び込んで来た自民党議員まで簡単に自民党語話法に染まって「エッフェル姉さん」や「トンデモ破廉恥余興」も屁の河童となる。つまり「人情を法制の上に置いている」からだ。

 だが、自民党語話法の人たちは自らが箍の外れた政治家だという自覚がない。箍の外れた桶は水が漏れて役に立たないが、箍が外れた政治家は「人情を法制の上」に置くため憲法を勝手に「解釈改憲」しておいてから、憲法改正するための国民投票が必要だ、と本末転倒した議論を平気で展開する。倒錯した思考回路に陥っていること自体に気付かない政治家が自民党政治家の正体だが、その自民党語話法にマスメディアに登場する評論家諸氏までも染まっていることに気付かない。
 だから一般国民が「キックバックは脱税だ」と騒いでも、日本の主要マスメディアにそうした論説はほとんど登場しない。憲法に関しても「国民的な改憲議論が必要だ」と自民党語話法に同調して、安倍内閣で勝手に「解釈改憲」を済ませてしまったことすら念頭にない。政治家に箍を嵌めるのが憲法だが、政治家が「解釈改憲」によりその箍を外したことに怒りを発しないマスメディアとは一体何だろうか。あるいは自民党語話法に毒されたのは自民党だけではなく、国民全体なのかも知れない。日本国民をそうしたのは恐らくNHKを筆頭にするマスメディアの責任だろう。彼らこそ自民党語話法の優秀な伝搬者だからだ。林語堂が生きて現在の日本を見れば、どのような皮肉を書き記すだろうか。

このブログの人気の投稿

それでも「レジ袋追放」は必要か。

麻生財務相のバカさ加減。

無能・無策の安倍氏よ、退陣すべきではないか。

経団連の親中派は日本を滅ぼす売国奴だ。

福一原発をスーツで訪れた安倍氏の非常識。

全国知事会を欠席した知事は

安倍氏は新型コロナウィルスの何を「隠蔽」しているのか。

自殺した担当者の遺言(破棄したはずの改竄前の公文書)が出て来たゾ。

安倍ヨイショの亡国評論家たち。