総裁選や代表選は根源的な議論を展開せよ。

自民党の「オススメ定食メニュー」が示す日本の大問題
 自民党総裁選は、堂々と政策のリストが出て、政策から対立軸が確定して合従連衡により政権選択がされるのがいい、常識的には誰でもそう考えると思います。そこに、中途半端な格好であれ地方党員票が入ってくることで、民意が間接的に反映するのであれば、出来上がった政権はある程度安定するからです。
 そう申し上げると、そんな発想は青臭い理想であり、永田町の現実はそんなものではないという声が飛んでくるわけです。ですが、常識的に考えれば、政策の軸がしっかり表明されて、政策の対立軸が構成された結果の選択であった方が、政権が発足した際にはやりやすいはずです。
 何故ならば、民意がある程度反映しているからですし、そうでなくても政策論争の結果として勝利して政権がスタートするので政策の実行には意外感がないからです。けれども、実際はそうはなりません。
 近年の日本の歴代内閣が、多くの場合は短命であったり、意外な崩壊を遂げたりする理由としては、総理のパブリックなコミュ力が欠落している場合が多いわけです。ですが、それだけではなく、持ち出した政策が唐突であることで崩壊する場合も多いわけで、そう考えると、先に政策論争を経て人事が決まれば良いというのは当たり前の話です。
 問題は、そうはならないということです。どうして政策の軸が出てこないのか、出てくるとしても非常に曖昧なのかということです。
 例えば高市氏やコバホーク氏が、あるいは青山氏が「保守だ」といっても、どこがどう保守なのかは曖昧です。例えば林氏とか河野氏は媚中だという悪口が出るわけですが、これも意味不明です。河野氏に関しては改革イメージをだそうとしていますが、これも曖昧です。
 小泉氏なども改革派のはずで、昔の自民党農林部会長の際には、負けたとは言えかなりの武闘派ぶりを見せていたはずですが、今回はそのイメージは封印しているようです。野田氏の場合は、守旧派で子育て支援という組み合わせがやはり意味不明です。石破さんも、反保守のようでもあり、一方で国軍設置となるとかなり異様な感じです。その他の、加藤、茂木、上川、齋藤などの顔ぶれは、どんな軸を持っているのか、ほぼ伝わって来ていません。
 とにかく、この時点で、まともな政策論争になっていないというのは、どうしてなのでしょう?
 彼らの多くが「まともな政策を持っていない」というのではないと思います。また、政策ではなく個人の上昇志向とか、特定の利益団体の利害代理人だけということでもないと思います。
 そうではなくて、個々人の、あるいはそれぞれのグループの持っている政策パッケージの「セットメニュー」が非常に分かりにくいということだと思います。

各政策パッケージの“食べ合わせ”が悪すぎる
 強引な比喩ですが、「天ぷら定食」だというので注文してみたら「パクチー」が大盛りで乗っていたとか、「ペペロンチーノセット」を頼んだら、「奈良漬け」がついてくるといった類です。
 非常に簡単な例を上げると、日本の場合は自分がアメリカと行き来しているし、アメリカ文化が好きなので、親米政策がいいと思ったとします。しかしながら、日本の政治風土における親米派というのは、靖国参拝をしたり、選択式夫婦別姓に反対したり、まさに「パスタに奈良漬け」状態なわけです。
 一方で、自分は若いので将来の地球環境が心配だと思って、環境政策を重視してほしいと思うと、そうした政策には「利潤追求は悪」だとか「経済成長も悪」というような激辛風味がついてきます。それだけでなく、経済成長は悪と言っている人物に限って自分は逃げ切り世代だったりするわけです。とにかく、政策の「組み合わせが悪い」のです。

なぜ「定食も単品も選びようがない日本」になったのか?
 与党も野党もそうですから、では単品メニューをというのはどうでしょうか。日本の政治の場合はそうした選択肢はないわけです。特に最近は、「小さな政府論から維新が気になっていたが、万博難航でドン引き」だとか「自民党にお灸をすえたくて立憲支持だったが共産と親和でドン引き、ついでにその泉健太代表は乃木神社の歴史的背景を知らないというので驚愕」というような感じで、単品も選びようがない感じです。
 そうではあるのですが、非常に率直に考えてみれば、今の日本の選択できる政策の範囲は非常に狭いと思います。
 外交は親米+親西側を軸に、それでも中国やロシアとは付かず離れずに利害を守り、基本は軽武装で専守防衛。エネルギーは長期的には再生可能の比率を高めるが当面は原発部分稼働でコスト抑制。世代間対立、地方の集約は中間点の何処かに着地。空洞化の抑制、イノベーションの再活性化などは常識的な策から3割増程度へ…というような「落とし所」は発見できるはずだからです。
 ですが、そのような「ズバリの落とし所」を堂々と主張する人はいないわけです。
 例えば、野党のいう辺野古反対(=普天間継続)、原発ゼロ(=化石燃料モクモク)というのは極端に過ぎて話になりません。保守にしても、枢軸日本の名誉回復(靖国参拝というのはそういうことで、孤立を招く利敵行為です)とか、選択式夫婦別姓反対(家父長制文化の原理主義)など、どう考えても「ドン引き」になる話ばかりです。
 そのような極端な激辛とか、スパイスてんこ盛りでしか集票ができないわけです。これではまるで、銃規制と中絶問題、あるいはイラン憎悪とか南部国境閉鎖などという極端な話で

「分断ごっこ」に明け暮れるアメリカのようです。
 では、日本の場合もアメリカのように、価値観の分断が起きているのかというと、どうもそうでもないようです。日本とアメリカの政治風土を比べてみると、どうも前提から思考過程から、何もかもが違っているように思います。
 では、日本の政治風土には何があるのでしょうか。今回は、総裁選と総選挙という政治の季節を前提に、特に「自民党の保守」とはなにか、少しこの点を掘り下げてみようと思います。ただ、網羅的な分析というのは、私の手には余りますので、とりあえず気づいた点について展開してみたいと思う次第です。

自民党保守派が“売国ムーブ”を繰り返した情けない理由
 自民党には保守派というのがあって、以前は安倍晋三氏の求心力に群がる人々がそうであったとか、その継承者は高市氏やコバホークなどという話が賑やかにされています。では、その「保守」というのは何なのでしょうか。
 表面的には、地方の名望家、つまり明治以降の新興経済人などが持っている独特の土着性を尊重するということがありそうです。大戦の戦没者を「英霊」として神聖視し、従って東条以下の対米英戦争を批判するのではなく擁護する、そんな立場です。それが絶対的に正しいのではなく、そのような心情が政治的求心力になるという計算がそこにはあるのだと思います。
 さらには、伝統的な社会価値観の擁護ということもあります。LGBTQ擁護は「国柄を変える」からイヤだとか、女性管理職を認めず、大卒でも女性にはお茶くみを強制し、そのくせ自分の娘には留学させて別の世界での活躍をさせる的な感覚もありそうです。
 いわば、文化や価値観における原理主義であり、イランの革命思想やアフガンの一夫多妻、パキスタン北部の名誉殺人などと類似の保守性がそこにあるのだと思います。そうした保守心情というのは、困ったことに労働慣行の前近代性や、DXや準英語圏入りに反発するビジネス面での非生産性と重なっています。
 ここへ来てハッキリしているのは、アベノミクスの「第三の矢」というのは、実は矢じりがついていない、つまり射たれることのない矢であったということです。先端技術の展開や国際化など、「国柄が変わってしまう」ことは国内ではやらずに、空洞化させて海外に持っていく、その結果としての海外での収益を最大化するために「円安」があるという全体構造があったのです。
 この点において、自民党保守派が異常なまでに「グローバリズム経済にフレンドリー」であったことの説明がつくわけです。国内の生産性向上はやりたくない、何故なら地方の名望家はライフスタイルの変更もマネジメントスタイルの変更も望んでいないから、というのが前提にあります。だからこそ、経団連企業は多国籍化して国内は空洞化させても仕方がない、でも円安にすれば円建て収益は極大化できるというわけです。
 民族資本が改革をしようとすると潰す、検索エンジンは違法、AIは著作権侵害、流通改革は阻止、というのも同じです。地方の名望家が持っている、現在の既得権益を壊すものは排除したいからです。そのくせ、GAFAMが日本市場を蹂躙するのには全くお構いなしであり、それは地方名望家は黒船には対抗しないからです。

竹中平蔵、靖国参拝。日本型保守主義の呆れた本質
 例えば、竹中改革について、彼が派遣業を自由化したので「氷河期世代が貧困に陥った」という解説がありますが、これは違うと思います。本来は、2001年の時点で、どんどんDXをやってソフト型の産業のイノベーションをやり、準英語圏入りするという選択肢はあったのだと思います。
 ですが、地方名望家はそれを望みませんでした。経団連企業も同様でした。ならば、日本語と紙とハンコによる非効率な「事務」という作業は捨てられないわけです。そうなると、連結決算で収益を出すには、少なくとも日本の本社管理機構の存在意義を出すにはコストダウンが必要だったのでした。決して冷酷な資本の論理や、曖昧な概念である新自由主義から派遣が導入されたのではないのです。
 事務の派遣労働とは、紙とハンコと日本語を維持するという絶望的な保守カルチャーを、まるで無形文化財のように続けるための方便として導入されたのでした。そこに日本型保守主義の絶望的な側面があるのだと思います。
 日本型保守の奇妙なところには、防衛の問題もあると思います。いわゆる日本会議系と言いますか、例えば靖国参拝に熱心な人々は、親米です。ですから、米国が日本の防衛を担い、軍事プレゼンスを維持していることを歓迎しています。本物の国粋主義であれば、自主防衛に向かうのが正道ですが、それを彼らは志向しません。
 自主防衛を志向しつつ、東条や白鳥の合祀されている靖国参拝を続けては、世界で孤立してしまいます。ですから、アメリカに瓶の蓋になってもらい、その瓶の中の「人畜無害なノスタルジー」として靖国参拝を続けているだけなのです。これは、愛国主義でも何でもないと思います。冷静に見れば現状追認と、バランス感覚ということになりますが、本質を見抜かれると国連や西側からのキックアウトもされかねない綱渡りとも言えます。
 繰り返しになりますが、経済に関しても似たような「ねじれ」があるわけです。国内の改革はやらない、イノベーションも収益の源泉も国外、国内市場を外資に蹂躙されるのも全くお構いなし、という政策は異常そのものです。冷静に考えたら、国を売っていると批判されてもおかしくないと思います。
 ですが、国内の改革はしたくないのです。極端なDX、極端な多様性の実現、平等で個人の尊厳が認められる社会が到来したら、年長男性の心理的権力行使はできなくなります。だから彼らは国内の改革はやりたくないのです。だから新しい部分はGAFAMの草刈り場になっても平然としていられるのだと思います。

日本型保守主義は国益を毀損しながら延命している
 非常に入り組んだ構造がそこにはあります。軍事外交としては、自主防衛を放棄する代わりに、靖国参拝を人畜無害の国内向け行為だという保証をアメリカにしてもらう(キッシンジャーは周恩来に対して本当に保証したようです)という構造がまずあります。
 経済面では、国内のDX改革をしない代わりにGAFAMに勝手にさせ、その代わりに北米市場では一定の収益を確保するという構造があります。
 岸田政権は、岸田氏が理解していたのかは不明ですが、少なくともこのような異様な構造に依存する体質は薄かったのだと思います。
 ですから、GAFAMに公取から規制をかけるとか、防衛費を2倍にするなどの安倍流からの「次官会議の意思としての修正」が入ったと見ることは可能でしょう。
 それはともかく、安倍総理がこうした全体図を「意図して設計していた」とは思えません。独自の政治勘で手なりの将棋を指していった先に出来てきた世界というのが正しいと思います。出来上がってみると、それが一つの大きな構造体として自転を始めているということだと思います。
 しかし、高市氏やコバホークが継承しようと思っても、それは容易ではないと思います。そして、そもそもこの全体構造には正しさは全くないし、国益という意味ではプラスにはならないと考えます>(以上「MAG2」より引用)




「なぜ日本型保守主義は竹中平蔵を利用し「売国」を繰り返したか?自民党の「政策セット定食」が常に激マズなワケ」と題する論評を一読して、冷泉彰彦(在米評論家)氏の考え方こそがステレンタイプではないかと思えた。たとえば「紙とハンコと日本語を維持するという絶望的な保守カルチャー」という括りは正しくないと思う。
 政策定食、という発想は確かに面白い。「枢軸日本の名誉回復(靖国参拝というのはそういうことで、孤立を招く利敵行為です)とか、選択式夫婦別姓反対(家父長制文化の原理主義)、辺野古反対(=普天間継続)、原発ゼロ(=化石燃料モクモク)」といった政策の裏側を示す手法も新しい。しかし冷泉氏が示した「裏」が果たして本当に正しいのか。

 たとえば辺野古反対は普天間反対でもあって、米軍基地を沖縄から撤退させよ、という主張の一環だ。原発ゼロは必ずしも化石燃料モクモクではなく、再エネ促進という論理もある。そして「紙とハンコと日本語維持」が「絶望的な保守カルチャー」というのは日本文化に対する蔑視でしかない。
 日本で日本語を用いるのは当然だ。日本企業が日本国内で英語を強制する方がどうかしている。その一方で、自民党政権は「GAFAMが日本市場を蹂躙するのには全くお構いなし」だったわけで、その意味では自民党政権は保守政権とは云えない。冷泉氏は「日本型保守主義の呆れた本質」との見出しで、竹中売国政策だと批判している。

 つまり冷泉氏は批評軸を「政治文化」において、冷泉しなりの「保守」や「革新」といったイメージがあるようだ。だから自民党政権は「国内のDX改革をしない代わりにGAFAMに勝手にさせ、その代わりに北米市場では一定の収益を確保するという構造」だったと断定しているが、「こうした全体図を「意図して設計していた」とは思えません」と場当たり的な政治を営々として続けてきた結果だという。
 しかし政治とはそうしたものではないか。なぜなら国民の多数意見に首尾一貫した政治理念などなく、場当たり的な政策を求めるからだ。たとえば小泉内閣が断行した郵政民営化は国民の利益を大きく棄損する愚かな改革でしかないが、それをも国民の多数は熱狂的に歓迎した。「構造改革」は新自由主義的な思潮を政治の場に持ち込んだが、それにより国民は貧困化し日本経済は衰退の坂道を転がり落ちることになった。

 現在は総裁候補や代表候補の多くが選択的夫婦別姓を公約に掲げているが、おそらく彼らは「家父長」的な日本の伝統を打倒しようなどとは考えていない。ましてや夫婦同姓が家父長制度の延長線上にあると指摘する冷泉氏の論理自体が誤りだ。
 世界に200近くある国で夫婦同姓を実施している国は7ヶ国ほどでしかない。それらの国は日本と日本の支配が及んだ東アジアの諸国に限られている。つまり夫婦同姓は日本が発祥の文化だ。だがそれが家父長的な戸籍制度の現れとは必ずしも云えない。なぜなら養子制度もあって、必ずしも夫婦が男性の姓を名乗るとは限らないからだ。それなら選択的夫婦別姓への法改正をしなくても、企業や社会でいずれかが旧姓を名乗ることを合法化すれば済む話だ。選択的夫婦別姓を持ち込んで良いことなど何もないからだ。

 それはLGBTqに対しても云えるだろう。日本では促進法を制定したが、LGBTqそのものが無理のある法律だということはパリ五輪でも明らかになった。元男性が女子ボクシングに出場して、飛んでもない結果になったではないか。
 米国社会を分断と混乱に陥れたい勢力が仕組んだLGBTq運動を日本の活動家が輸入して騒ぎ立てたのが主原因だが、日本には古くから「陰間」文化はあった。今更取り立てて問題化する方がどうかしている。それは意図した社会の分断化であって、多くの国民が「男子は男性らしく、女子は女性らしく」ありたいと思う願望を砕くことでしかない。自身の性を大事にしないで、異性を尊重することなど出来ない。そして社会は両性の協力により成り立っている。そうした生物のあの方を破壊する運動が社会性を持つ方がどうかしている。

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