「平家にあらずんば人にあらず」
<夫と同様に日々の行動を詳細に報道
先週5月5日から10日まで、習近平(しゅう・きんぺい)中国国家主席が、フランス、セルビア、ハンガリーを歴訪した。コロナ禍を挟んで、5年ぶりのヨーロッパ外遊である。その間、CCTV(中国中央広播電視総台)は、日々のニュース時間枠を拡大して、習近平主席の連日の「雄姿」を、詳細に伝えた。
習近平主席が外遊に出たり、中国国内の視察に出たりした際に、その一挙手一投足を特別枠で伝えることは、この11年あまり、習慣となってきた。国家主席の晴れがましい活動ぶりを伝えることは、国威発揚に直結する。
だが一点だけ、今回のヨーロッパ歴訪が、いつもの習近平主席の外遊報道と異なることがあった。それは、同行者である彭麗媛(ほう・れいえん)夫人の「扱い」である。「本日、彭麗媛夫人は、〇〇の活動に参加しました……」と、夫と同様に日々の行動を、詳細に報道したのである。
例えば、5月7日の早朝に国営新華社通信が流した長文の記事の冒頭は、以下の通りである。
〈 現地時間の5月6日午前、国家主席習近平夫人で、ユネスコ(国連教育科学文化機関)女児・女性教育特使の彭麗媛は、パリのユネスコ本部で、アズレ事務局長と会見した。これはアズレ事務局長が、彭麗媛特使の特使就任10周年を記念して、栄誉証書を授けるためだった。
彭麗媛特使が到着すると、ユネスコのアズレ事務局長は入口で、熱烈に迎えた。アズレ事務局長は彭麗媛特使を伴って、「中国・ユネスコ協力10年成果展」を参観した。
アズレ事務局長と会見した際、彭麗媛特使は簡単に、中国が女児と女性教育事業の方面で、新たな進展、特に「春のツボミ計画」が成果を挙げていることを紹介した。
「私が特使を務めてきた10年来、多くの国の学校を訪問してきました。そこで、ますます多くの女性たちが、教育によって運命を変え、幸福な生活を送っているのを見て、嬉しく思いました。
女児と女性の教育事業は、偉大な事業です。社会の進歩と人類共同の運命と関係があるのです。中国はユネスコと共に努力し、全世界の女児と女性の教育の推進に力を注いでいきます。そしてさらに多くの女性が、平等に教育を受ける権利を得られるよう助け、美しい未来を共に築いていきたいのです」…… 〉
CCTVの映像は、習主席が乗るのと同様の特製「紅旗」でユネスコ本部に現れるシーンから始まった。そして、薄ピンク色のスーツに身を包んだ彭麗媛夫人が、夫顔負けの堂々とした演説をぶっている様子を映し出した。
夫人の発言を、ほとんどカットすることなく
続く訪問地のセルビアの首都ベオグラードでは、アレクサンダル・ブチッチ・セルビア大統領のタマラ夫人に伴われて、セルビア国家博物館を参観した時の様子が、やはり詳細に報じられた。取り巻きたちに囲まれて、博物館の通路中央を闊歩する様子は、夫を髣髴させる。新華社通信の報道は、以下の通りだ。
〈 現地時間の5月8日午前、習近平国家主席の彭麗媛夫人は、ベオグラードでブチッチ大統領のタマラ夫人の招待で、設備婭国家博物館を参観した。両国家元首夫人は、特別絵画展を参観した。彭麗媛夫人はこう述べた。
「(1844年開館の)セルビア国家博物館は悠久の歴史があり、所蔵作品も豊富です。代表的な画作の筆遣いは細やかで、心に染み入るものです。博物館は文物を保護し、展示する窓口であるだけでなく、文明を高揚させる殿堂でもあるのです。中国とセルビアの双方で文化交流の提携を強化し、共同で文明対話の橋梁を築いていきたい」
両国家元首夫人は、セルビアの女性による手工芸の伝統的な刺繡の展示も参観し、彼女たちと交流した。彭麗媛夫人は述べた。
「セルビアの手工芸の刺繍は、技術が精緻で特色があります。これは重要な無形文化遺産です。そしてこの文化はうまく継承され、発揚されています。
中国とセルビアの刺繍文化には、類似性があります。双方とも互いを鑑に、交流を強化していこうではありませんか。両国の若者たちが積極的に参加していけるよう励ましていこうではありませんか。伝統的な手工芸を、子々孫々へと継承していこうではありませんか」…… 〉
こうした彭麗媛夫人の発言を、CCTVがほとんどカットすることなく、中国のお茶の間に届けたのだった。
最後の訪問地、ハンガリーのブタペストでは、シュヨク・タマーシュ大統領のナジ夫人と、ブタの王宮で茶話会を開いたことが報じられた。今度はド派手な真紅のセーターに、高価そうな真白のジャケットを羽織って登場した。再び新華社通信の5月9日夜の配信記事である。
〈 現地時間の5月9日午前、習近平国家主席の彭麗媛夫人は、シュヨク大統領のナジ夫人の招待で、ブタの王宮を参観し、茶話会を開いた。ナジ夫人と彭麗媛夫人は、ハンガリーのハイランド瓷器と伝統的な刺繍芸術の展示を鑑賞した。彭麗媛夫人はこう述べた。
「ハンガリーの精微な瓷器と超ハイレベルな刺繍芸術は、見る者に深い印象を与えます。瓷器と刺繍は、中国とハンガリー両国の文明の共通の特徴です。両国の芸術家たちが互いに鑑にして交流を強化し、文明の交友を推進していくことを期待しています」
彭麗媛夫人とナジ夫人は、王宮の聖イシュトバーン庁の修復の状況について、説明を受けた。彭麗媛夫人はハンガリーの専門家たちの精緻な修復技術を称賛した。そして双方が文物保護と修復の分野で協力を強化し、歴史の文物をい一層よい形で次代に継承していくことを希望していると述べた。
彭麗媛夫人とナジ夫人は、友好的な雰囲気の中で茶話会を進めた。彭麗媛夫人は、こう述べた。
「ハンガリーはとても美しい国で、人々は情を持ってもてなしてくれます。中国とハンガリーの文化は、互いに通じるところが多いです。両国の国民は、互いに深い親近感を持っています。両国の友誼には、堅い基礎があるのです。両国の友誼の灯が、代を継いで末永く堅いものとなることを願います」 〉
こちらもまた、CCTVが彭麗媛夫人の長広舌を、アップの映像ともに伝えた。
敬称が「夫人」から「教授」に!
それにしても、計6日間にわたって、毎回の場面ごとに変わる彭麗媛夫人の派手な衣装、そしてその圧倒的な存在感は、今回の習近平主席のヨーロッパ3ヵ国歴訪の「白眉」とも言えた。今回の外遊を総括するニュースの中で、CCTVのナレーションは、こう締めくくった。
「こうして彭麗媛教授は、3ヵ国で計20以上もの活動に参加し、行く先々で人々を感動を与えたのです」
いつのまにか、敬称が「夫人」から「教授」に代わっていた。
3月前半(5日~11日)の全国人民代表大会(年に一度開く国会)を契機として、「中南海」(北京の最高幹部の職住地)で、何らかの方針変更があった可能性がある。そうでなければ、これほど彭麗媛夫人が、突然「夫並み」の「準主役級」の報道をされるのは、不自然である。
彭麗媛夫人は、1962年11月20日、山東省菏沢市鄆城県に生まれた。一般に山東省の女性は、気丈なことで知られる。第18期中国共産党中央委員会政治局常務委員(トップ7)の夫人は、習近平夫人、李克強(り・こくきょう)夫人など、7人全員が山東省の出身者だった。
彭麗媛夫人は、中国で改革開放政策が始まった1978年、16歳で山東省の省都・済南に出て、山東五七芸術学校(後に山東芸術学院)に入学。声楽を勉強した。1980年、済南軍区前衛歌舞団に入隊。軍属のまま、中国音楽学院声楽科に入学し、学士と修士を取得した。1984年には人民解放軍の総政歌舞団に典籍した。
1985年に文化部主催の第1回全国声楽コンクール「民族唱法部門」で優勝。同年に中国共産党に入党し、その後、中国音楽家協会理事、同副主席などを歴任した。中国版の紅白歌合戦にあたる「春晩」(チュンワン)に28年も連続で出場するなど、国民的歌手となったのである。
そんな彭麗媛氏は1986年、24歳の時に、9歳年上の習近平氏と知り合った。習近平氏は、1979年に父親・習仲勲(しゅう・ちゅうくん)元副首相の紹介で、柯華(か・か)駐英大使の娘・柯玲玲(か・れいれい)氏と見合い結婚したが、欧米志向の強い夫人と性格が合わず、わずか3年で離婚した。1986年当時は、福建省アモイ市の副市長を務めていた。
私が北京で駐在員をしていた2011年6月、中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』傘下の週刊誌『環球人物』(6月26日号)が、14ページにわたって彭麗媛夫人の特集を組んだ。そこには、本人へのインタビューに基づいた二人の出会いについて、詳細に記されていた。以下に翻訳する。
〈 1986年の暮れに、友人から「福建省アモイの習近平副市長と見合いをしないか」と誘われた彭麗媛は、会いたくもなかったが、友人がしきりに「とびきりの男だ」と勧めるので、わざと汚い軍服を着て行った。そうしたら、習近平もまったくの普段着で来た。
習近平からは、よく幹部たちに聞かれる「出演料はいくらもらっているんだ?」という質問が出るかと思いきや、「声楽の発声法について教えてほしい」と言われ、驚いた。すぐに帰るつもりが、すっかり長居し、別れ際に、夫にするならこの男だと確信した。
後に習近平も、「会って40分で君を妻にしようと思った」と告白した。山東省の両親が、「太子党」(幹部の息子)と結婚すると大変だと言って反対したが、習近平は「父は農民の息子で、気さくな人だ」と言って押し切った。
1987年9月1日、彭麗媛は飛行機で北京からアモイへ降り立ち、二人は写真館に行って婚礼写真を撮った後、市役所へ行って結婚の手続きをした。4日目には彭麗媛は北京へ戻って、全国芸術祭に参加。そのままカナダ、アメリカ公演に出て、3ヵ月も別居生活が続いた。
以後も、北京と福建ですれ違いの別居生活が続き、どちらかが会いに行っても、すぐにとんぼ返りという日々だった。
そんな中、彭麗媛はある時は、図体の大きい習近平が小さな布団に寝ているのを哀れに思って、母親に作ってもらった綿の大型布団を届けた。またある時は、習近平の食生活を哀れに思って、香港公演の時に大量のカップラーメンを買い込んで、習近平に届けた。そんな妻に感謝した習近平は、出張時には必ず、妻の歌のテープが入ったテープレコーダーを持参した。
1992年に一人娘の習明沢が生まれた時も、(福州市党委書記の)習近平は、台風被害の陣頭指揮を執っていて、妻の出産に立ち会えなかった。習明沢は2008年に四川大地震が起こった時、高校生ボランティアとして活躍。翌2009年秋に、浙江大学外国語学部に入学した…… 〉
ご愛用の「中国産のブランド」とは?
2012年11月、第18回中国共産党大会で、習近平氏が共産党総書記に就き、翌2013年3月に全国人民代表大会で国家主席に就いた。この時、多くの中国人は、習近平という政治家を知らなかった。「彭麗媛の夫が中国のトップに就いた」という認識だったのである。
そのため、初期の頃の習近平主席は、「国民的歌手」である夫人の「名声」にあやかろうとしたフシがある。それが如実に表れたのが、2013年3月の国家主席としての初外遊だった。
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領をこよなく敬愛していた習近平主席は、国家主席に就任した翌週の3月22日、早くもモスクワに飛んだ。モスクワの空港に降り立った習近平新国家主席の姿が、CCTVのニュース映像に映し出された時、多くの中国人が衝撃を受けた。
習近平主席は、何と彭麗媛夫人の手を繋いで、タラップから降りてきたのである。後に中国外交部の人に確認したら、「ライバルを意識した演出ではないか」と言われた。当時の最大のライバルと言えば、日本の安倍晋三首相である。安倍首相が昭恵夫人と手を繋いで降りてくるスタイルをまねたのだろう。
私は北京駐在員時代に、あるパーティで一度、彭麗媛夫人を見かけたことがある。やはり派手な衣装に身を包み、周囲の視線を一手に集めていた。まさに「国民的歌手オーラ」全開だった。
習近平主席は、初めての外遊で、モスクワからアフリカのタンザニアに渡り、BRICS(新興5ヵ国)首脳会議が行われた南アフリカ、そしてコンゴと回った。そしてその間、彭麗媛夫人が、ピタリと同伴したのだった。
『人民日報』傘下の国際紙『環球時報』(2013年3月28日付)は、次のように報じている。
〈 習近平新国家主席のファーストレディである彭麗媛夫人が、中国産のブランドのファッションを身に着けて、ロシアを始め、訪問する先々で大歓迎を受けた。彭麗媛夫人は、中国の民族ブランドを牽引するモデルなのだ。彭麗媛夫人のおかげで、われわれ中国人の中国文化への自信も深まっていく 〉
CCTVを始めとする中国の官製メディアは、中国人なら誰でも知っている彭麗媛夫人を前面に出すことで、「習近平新時代」を演出しようとしたのだ。とかく地味な新主席と較べて、圧倒的な存在感だった。
『環球時報』が強調していた、彭麗媛夫人ご愛用の「中国産のブランド」とは何だろうかと調べてみたら、広東省の省都・広州にある「例外」(EXEPCION)というブランドであることが分かった。そこで東京から同社に電話して聞いたところ、広報担当者は誇らしげに語った。
「彭麗媛教授には昔から、私たち『例外』ブランドを贔屓(ひいき)にしていただいています。今回の外遊のファッションは、環境に優しい素材というテーマで、すべて手作りで製作しました。中国ブランドが、中国だけでなく世界の各方面から支持を受けて、大変嬉しく思います」
これは一体、何を意味するのか?
このように彭麗媛夫人は、「習近平新時代」を演出する功労者となった。だがその後、長く鳴りを潜めてしまう。
それは、当時はまだ健在だった長老(引退した幹部)たちの猛反発を受けたからだと言われる。中国では、俗に「雌鳥鳴けば国滅ぶ」(母鶏司晨、国必滅亡)と言われるお国柄だからだ。悠久の中国史において、則天武后(そくてんぶこう)や西太后(せいたいごう)など、女性が前面に出てきてロクなことはなかったという認識なのだ。
特に、毛沢東(もう・たくとう)元主席の江青(こう・せい)夫人が前面に出て、1966年に文化大革命の悲劇を巻き起こしたことは、いまだ記憶に生々しかった。そのこともあって、鄧小平(とう・しょうへい)、江沢民(こう・たくみん)、胡錦濤(こ・きんとう)と続いたその後の指導者たちは、夫人を決して表舞台には出させなかった。彼女たちはたまに出てきても、存在感を感じさせなかった。
こうして、長らく存在感を見せなかった彭麗媛夫人だったが、時々、その動静が報道されることがあった。例えば、2015年9月に習近平主席が、国賓として訪米した時などだ。だがそうした場合でも、今回ほど「準主役級」の報道をされることはなかった。
それが突然、スポットライトを浴びた。これは一体、何を意味するのか?
習近平夫妻が今回の外遊に出発した5月5日、香港の『星島網』が、意味深な記事を掲載した。タイトルは、「彭麗媛の軍隊での職務が暴露されたかもしれない、軍事委員会幹部の選考委員に就いていた」。
〈 SNSで、彭麗媛が軍隊で活動中の写真が流出した。そしてその身分は、「中央軍事委員会幹部の選考委員会専属委員」。
習近平国家主席の彭麗媛夫人は、2017年に人民解放軍芸術学院院長を退いた後、軍隊での職務は不詳である。SNSで流出した彭麗媛の軍隊での活動中の写真の説明書きは、こうなっている。「彭麗媛中央軍事委員会幹部選考委員会専属委員が校内に来て、幹部人材の形成に関して調査研究を行った」 〉
穿った見方をすれば、上述の長老に通じるグループが、習近平夫妻の外遊に合わせて、流出させたのかもしれない。
ともあれ、彭麗媛夫人の動向には、今後とも要注目である>(以上「現代ビジネス」より引用)
「習近平「欧州外遊報道」に見る異変…彭麗媛夫人の“扱い”が「夫並み」「準主役級」になっているのは何を意味するのか」と近藤 大介(現代ビジネス編集次長)氏が考察している。しかし結論として「要注意である」と出すに止まった。
先週5月5日から10日まで、習近平(しゅう・きんぺい)中国国家主席が、フランス、セルビア、ハンガリーを歴訪した。コロナ禍を挟んで、5年ぶりのヨーロッパ外遊である。その間、CCTV(中国中央広播電視総台)は、日々のニュース時間枠を拡大して、習近平主席の連日の「雄姿」を、詳細に伝えた。
習近平主席が外遊に出たり、中国国内の視察に出たりした際に、その一挙手一投足を特別枠で伝えることは、この11年あまり、習慣となってきた。国家主席の晴れがましい活動ぶりを伝えることは、国威発揚に直結する。
だが一点だけ、今回のヨーロッパ歴訪が、いつもの習近平主席の外遊報道と異なることがあった。それは、同行者である彭麗媛(ほう・れいえん)夫人の「扱い」である。「本日、彭麗媛夫人は、〇〇の活動に参加しました……」と、夫と同様に日々の行動を、詳細に報道したのである。
例えば、5月7日の早朝に国営新華社通信が流した長文の記事の冒頭は、以下の通りである。
〈 現地時間の5月6日午前、国家主席習近平夫人で、ユネスコ(国連教育科学文化機関)女児・女性教育特使の彭麗媛は、パリのユネスコ本部で、アズレ事務局長と会見した。これはアズレ事務局長が、彭麗媛特使の特使就任10周年を記念して、栄誉証書を授けるためだった。
彭麗媛特使が到着すると、ユネスコのアズレ事務局長は入口で、熱烈に迎えた。アズレ事務局長は彭麗媛特使を伴って、「中国・ユネスコ協力10年成果展」を参観した。
アズレ事務局長と会見した際、彭麗媛特使は簡単に、中国が女児と女性教育事業の方面で、新たな進展、特に「春のツボミ計画」が成果を挙げていることを紹介した。
「私が特使を務めてきた10年来、多くの国の学校を訪問してきました。そこで、ますます多くの女性たちが、教育によって運命を変え、幸福な生活を送っているのを見て、嬉しく思いました。
女児と女性の教育事業は、偉大な事業です。社会の進歩と人類共同の運命と関係があるのです。中国はユネスコと共に努力し、全世界の女児と女性の教育の推進に力を注いでいきます。そしてさらに多くの女性が、平等に教育を受ける権利を得られるよう助け、美しい未来を共に築いていきたいのです」…… 〉
CCTVの映像は、習主席が乗るのと同様の特製「紅旗」でユネスコ本部に現れるシーンから始まった。そして、薄ピンク色のスーツに身を包んだ彭麗媛夫人が、夫顔負けの堂々とした演説をぶっている様子を映し出した。
夫人の発言を、ほとんどカットすることなく
続く訪問地のセルビアの首都ベオグラードでは、アレクサンダル・ブチッチ・セルビア大統領のタマラ夫人に伴われて、セルビア国家博物館を参観した時の様子が、やはり詳細に報じられた。取り巻きたちに囲まれて、博物館の通路中央を闊歩する様子は、夫を髣髴させる。新華社通信の報道は、以下の通りだ。
〈 現地時間の5月8日午前、習近平国家主席の彭麗媛夫人は、ベオグラードでブチッチ大統領のタマラ夫人の招待で、設備婭国家博物館を参観した。両国家元首夫人は、特別絵画展を参観した。彭麗媛夫人はこう述べた。
「(1844年開館の)セルビア国家博物館は悠久の歴史があり、所蔵作品も豊富です。代表的な画作の筆遣いは細やかで、心に染み入るものです。博物館は文物を保護し、展示する窓口であるだけでなく、文明を高揚させる殿堂でもあるのです。中国とセルビアの双方で文化交流の提携を強化し、共同で文明対話の橋梁を築いていきたい」
両国家元首夫人は、セルビアの女性による手工芸の伝統的な刺繡の展示も参観し、彼女たちと交流した。彭麗媛夫人は述べた。
「セルビアの手工芸の刺繍は、技術が精緻で特色があります。これは重要な無形文化遺産です。そしてこの文化はうまく継承され、発揚されています。
中国とセルビアの刺繍文化には、類似性があります。双方とも互いを鑑に、交流を強化していこうではありませんか。両国の若者たちが積極的に参加していけるよう励ましていこうではありませんか。伝統的な手工芸を、子々孫々へと継承していこうではありませんか」…… 〉
こうした彭麗媛夫人の発言を、CCTVがほとんどカットすることなく、中国のお茶の間に届けたのだった。
最後の訪問地、ハンガリーのブタペストでは、シュヨク・タマーシュ大統領のナジ夫人と、ブタの王宮で茶話会を開いたことが報じられた。今度はド派手な真紅のセーターに、高価そうな真白のジャケットを羽織って登場した。再び新華社通信の5月9日夜の配信記事である。
〈 現地時間の5月9日午前、習近平国家主席の彭麗媛夫人は、シュヨク大統領のナジ夫人の招待で、ブタの王宮を参観し、茶話会を開いた。ナジ夫人と彭麗媛夫人は、ハンガリーのハイランド瓷器と伝統的な刺繍芸術の展示を鑑賞した。彭麗媛夫人はこう述べた。
「ハンガリーの精微な瓷器と超ハイレベルな刺繍芸術は、見る者に深い印象を与えます。瓷器と刺繍は、中国とハンガリー両国の文明の共通の特徴です。両国の芸術家たちが互いに鑑にして交流を強化し、文明の交友を推進していくことを期待しています」
彭麗媛夫人とナジ夫人は、王宮の聖イシュトバーン庁の修復の状況について、説明を受けた。彭麗媛夫人はハンガリーの専門家たちの精緻な修復技術を称賛した。そして双方が文物保護と修復の分野で協力を強化し、歴史の文物をい一層よい形で次代に継承していくことを希望していると述べた。
彭麗媛夫人とナジ夫人は、友好的な雰囲気の中で茶話会を進めた。彭麗媛夫人は、こう述べた。
「ハンガリーはとても美しい国で、人々は情を持ってもてなしてくれます。中国とハンガリーの文化は、互いに通じるところが多いです。両国の国民は、互いに深い親近感を持っています。両国の友誼には、堅い基礎があるのです。両国の友誼の灯が、代を継いで末永く堅いものとなることを願います」 〉
こちらもまた、CCTVが彭麗媛夫人の長広舌を、アップの映像ともに伝えた。
敬称が「夫人」から「教授」に!
それにしても、計6日間にわたって、毎回の場面ごとに変わる彭麗媛夫人の派手な衣装、そしてその圧倒的な存在感は、今回の習近平主席のヨーロッパ3ヵ国歴訪の「白眉」とも言えた。今回の外遊を総括するニュースの中で、CCTVのナレーションは、こう締めくくった。
「こうして彭麗媛教授は、3ヵ国で計20以上もの活動に参加し、行く先々で人々を感動を与えたのです」
いつのまにか、敬称が「夫人」から「教授」に代わっていた。
3月前半(5日~11日)の全国人民代表大会(年に一度開く国会)を契機として、「中南海」(北京の最高幹部の職住地)で、何らかの方針変更があった可能性がある。そうでなければ、これほど彭麗媛夫人が、突然「夫並み」の「準主役級」の報道をされるのは、不自然である。
彭麗媛夫人は、1962年11月20日、山東省菏沢市鄆城県に生まれた。一般に山東省の女性は、気丈なことで知られる。第18期中国共産党中央委員会政治局常務委員(トップ7)の夫人は、習近平夫人、李克強(り・こくきょう)夫人など、7人全員が山東省の出身者だった。
彭麗媛夫人は、中国で改革開放政策が始まった1978年、16歳で山東省の省都・済南に出て、山東五七芸術学校(後に山東芸術学院)に入学。声楽を勉強した。1980年、済南軍区前衛歌舞団に入隊。軍属のまま、中国音楽学院声楽科に入学し、学士と修士を取得した。1984年には人民解放軍の総政歌舞団に典籍した。
1985年に文化部主催の第1回全国声楽コンクール「民族唱法部門」で優勝。同年に中国共産党に入党し、その後、中国音楽家協会理事、同副主席などを歴任した。中国版の紅白歌合戦にあたる「春晩」(チュンワン)に28年も連続で出場するなど、国民的歌手となったのである。
そんな彭麗媛氏は1986年、24歳の時に、9歳年上の習近平氏と知り合った。習近平氏は、1979年に父親・習仲勲(しゅう・ちゅうくん)元副首相の紹介で、柯華(か・か)駐英大使の娘・柯玲玲(か・れいれい)氏と見合い結婚したが、欧米志向の強い夫人と性格が合わず、わずか3年で離婚した。1986年当時は、福建省アモイ市の副市長を務めていた。
私が北京で駐在員をしていた2011年6月、中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』傘下の週刊誌『環球人物』(6月26日号)が、14ページにわたって彭麗媛夫人の特集を組んだ。そこには、本人へのインタビューに基づいた二人の出会いについて、詳細に記されていた。以下に翻訳する。
〈 1986年の暮れに、友人から「福建省アモイの習近平副市長と見合いをしないか」と誘われた彭麗媛は、会いたくもなかったが、友人がしきりに「とびきりの男だ」と勧めるので、わざと汚い軍服を着て行った。そうしたら、習近平もまったくの普段着で来た。
習近平からは、よく幹部たちに聞かれる「出演料はいくらもらっているんだ?」という質問が出るかと思いきや、「声楽の発声法について教えてほしい」と言われ、驚いた。すぐに帰るつもりが、すっかり長居し、別れ際に、夫にするならこの男だと確信した。
後に習近平も、「会って40分で君を妻にしようと思った」と告白した。山東省の両親が、「太子党」(幹部の息子)と結婚すると大変だと言って反対したが、習近平は「父は農民の息子で、気さくな人だ」と言って押し切った。
1987年9月1日、彭麗媛は飛行機で北京からアモイへ降り立ち、二人は写真館に行って婚礼写真を撮った後、市役所へ行って結婚の手続きをした。4日目には彭麗媛は北京へ戻って、全国芸術祭に参加。そのままカナダ、アメリカ公演に出て、3ヵ月も別居生活が続いた。
以後も、北京と福建ですれ違いの別居生活が続き、どちらかが会いに行っても、すぐにとんぼ返りという日々だった。
そんな中、彭麗媛はある時は、図体の大きい習近平が小さな布団に寝ているのを哀れに思って、母親に作ってもらった綿の大型布団を届けた。またある時は、習近平の食生活を哀れに思って、香港公演の時に大量のカップラーメンを買い込んで、習近平に届けた。そんな妻に感謝した習近平は、出張時には必ず、妻の歌のテープが入ったテープレコーダーを持参した。
1992年に一人娘の習明沢が生まれた時も、(福州市党委書記の)習近平は、台風被害の陣頭指揮を執っていて、妻の出産に立ち会えなかった。習明沢は2008年に四川大地震が起こった時、高校生ボランティアとして活躍。翌2009年秋に、浙江大学外国語学部に入学した…… 〉
ご愛用の「中国産のブランド」とは?
2012年11月、第18回中国共産党大会で、習近平氏が共産党総書記に就き、翌2013年3月に全国人民代表大会で国家主席に就いた。この時、多くの中国人は、習近平という政治家を知らなかった。「彭麗媛の夫が中国のトップに就いた」という認識だったのである。
そのため、初期の頃の習近平主席は、「国民的歌手」である夫人の「名声」にあやかろうとしたフシがある。それが如実に表れたのが、2013年3月の国家主席としての初外遊だった。
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領をこよなく敬愛していた習近平主席は、国家主席に就任した翌週の3月22日、早くもモスクワに飛んだ。モスクワの空港に降り立った習近平新国家主席の姿が、CCTVのニュース映像に映し出された時、多くの中国人が衝撃を受けた。
習近平主席は、何と彭麗媛夫人の手を繋いで、タラップから降りてきたのである。後に中国外交部の人に確認したら、「ライバルを意識した演出ではないか」と言われた。当時の最大のライバルと言えば、日本の安倍晋三首相である。安倍首相が昭恵夫人と手を繋いで降りてくるスタイルをまねたのだろう。
私は北京駐在員時代に、あるパーティで一度、彭麗媛夫人を見かけたことがある。やはり派手な衣装に身を包み、周囲の視線を一手に集めていた。まさに「国民的歌手オーラ」全開だった。
習近平主席は、初めての外遊で、モスクワからアフリカのタンザニアに渡り、BRICS(新興5ヵ国)首脳会議が行われた南アフリカ、そしてコンゴと回った。そしてその間、彭麗媛夫人が、ピタリと同伴したのだった。
『人民日報』傘下の国際紙『環球時報』(2013年3月28日付)は、次のように報じている。
〈 習近平新国家主席のファーストレディである彭麗媛夫人が、中国産のブランドのファッションを身に着けて、ロシアを始め、訪問する先々で大歓迎を受けた。彭麗媛夫人は、中国の民族ブランドを牽引するモデルなのだ。彭麗媛夫人のおかげで、われわれ中国人の中国文化への自信も深まっていく 〉
CCTVを始めとする中国の官製メディアは、中国人なら誰でも知っている彭麗媛夫人を前面に出すことで、「習近平新時代」を演出しようとしたのだ。とかく地味な新主席と較べて、圧倒的な存在感だった。
『環球時報』が強調していた、彭麗媛夫人ご愛用の「中国産のブランド」とは何だろうかと調べてみたら、広東省の省都・広州にある「例外」(EXEPCION)というブランドであることが分かった。そこで東京から同社に電話して聞いたところ、広報担当者は誇らしげに語った。
「彭麗媛教授には昔から、私たち『例外』ブランドを贔屓(ひいき)にしていただいています。今回の外遊のファッションは、環境に優しい素材というテーマで、すべて手作りで製作しました。中国ブランドが、中国だけでなく世界の各方面から支持を受けて、大変嬉しく思います」
これは一体、何を意味するのか?
このように彭麗媛夫人は、「習近平新時代」を演出する功労者となった。だがその後、長く鳴りを潜めてしまう。
それは、当時はまだ健在だった長老(引退した幹部)たちの猛反発を受けたからだと言われる。中国では、俗に「雌鳥鳴けば国滅ぶ」(母鶏司晨、国必滅亡)と言われるお国柄だからだ。悠久の中国史において、則天武后(そくてんぶこう)や西太后(せいたいごう)など、女性が前面に出てきてロクなことはなかったという認識なのだ。
特に、毛沢東(もう・たくとう)元主席の江青(こう・せい)夫人が前面に出て、1966年に文化大革命の悲劇を巻き起こしたことは、いまだ記憶に生々しかった。そのこともあって、鄧小平(とう・しょうへい)、江沢民(こう・たくみん)、胡錦濤(こ・きんとう)と続いたその後の指導者たちは、夫人を決して表舞台には出させなかった。彼女たちはたまに出てきても、存在感を感じさせなかった。
こうして、長らく存在感を見せなかった彭麗媛夫人だったが、時々、その動静が報道されることがあった。例えば、2015年9月に習近平主席が、国賓として訪米した時などだ。だがそうした場合でも、今回ほど「準主役級」の報道をされることはなかった。
それが突然、スポットライトを浴びた。これは一体、何を意味するのか?
習近平夫妻が今回の外遊に出発した5月5日、香港の『星島網』が、意味深な記事を掲載した。タイトルは、「彭麗媛の軍隊での職務が暴露されたかもしれない、軍事委員会幹部の選考委員に就いていた」。
〈 SNSで、彭麗媛が軍隊で活動中の写真が流出した。そしてその身分は、「中央軍事委員会幹部の選考委員会専属委員」。
習近平国家主席の彭麗媛夫人は、2017年に人民解放軍芸術学院院長を退いた後、軍隊での職務は不詳である。SNSで流出した彭麗媛の軍隊での活動中の写真の説明書きは、こうなっている。「彭麗媛中央軍事委員会幹部選考委員会専属委員が校内に来て、幹部人材の形成に関して調査研究を行った」 〉
穿った見方をすれば、上述の長老に通じるグループが、習近平夫妻の外遊に合わせて、流出させたのかもしれない。
ともあれ、彭麗媛夫人の動向には、今後とも要注目である>(以上「現代ビジネス」より引用)
「習近平「欧州外遊報道」に見る異変…彭麗媛夫人の“扱い”が「夫並み」「準主役級」になっているのは何を意味するのか」と近藤 大介(現代ビジネス編集次長)氏が考察している。しかし結論として「要注意である」と出すに止まった。
だが独裁者の夫人が表舞台にでて、国民の喝采が長く続いた例を知らない。中国史では「虞や虞や汝を如何せん」の虞美人のことが思い起こされるが、四面楚歌に陥った項羽の絶望を現している。
近くはルーマニアの独裁者チャウシェスク大統領夫妻が想起される。チャウシェスク氏は1974年に大統領環就任し、1989年12月に始まった抗議行動を引き金に、民衆の不満が国内でも爆発して同年12月25日に銃殺刑に処せられた。
中国では「雌鳥鳴けば国滅ぶ」(母鶏司晨、国必滅亡)という言葉がある通り、則天武后や西太后など女性が政権中枢に就けば国は乱れ滅亡へと向かった。毛沢東の江青夫人が前面に出て、1966年に文化大革命の悲劇を巻き起こしたが、それ以後江青夫人が排除されるまで中国民の多くは塗炭の苦しみを味わった。
5月5日からの習近平訪欧に彭麗媛夫人も同伴した。そのパリのホテルで帰って来た彭麗媛夫人がロビーで華春瑩外務次官補・報道官を叱りつけてビンタしたという。何があったのか窺い知ることは出来ないが、政府高官を叱りつけるほど彭麗媛夫人の地位が高くなっている。
もっとも正式には彭麗媛夫人の役職は引用論評にある通り「中央軍事委員会幹部の選考委員会専属委員」ということになっている。つまり軍部幹部に影響力を持つ立場にある。そういえば習近平氏の身辺警護をする警察隊は義兄が指揮しているという。
習近平国家主席は他人を信用していないようだ。それほど身辺を警戒し、軍部の幹部選任に彭麗媛夫人を関わらせて軍幹部の動向に目を光らせている。
習近平氏が独裁体制を強めるに従って習近平氏の身辺を親族が固めるようになり、幹部官僚たちはイエスマンで取り巻けば、習近平氏は裸の王様になってしまう。さらに彭麗媛夫人が公開の場で女性政府高官を叱りつけたりすれば、民心が習近平氏から離れていくのは時間の問題だ。
「平家にあらずんば人にあらず」と言ったのは平清盛の正妻・時子の弟、平時忠だ。権力の絶頂にあった平清盛の独裁政権はその絶頂期に凋落が萌芽していた。まさに習近平氏に絶頂期の平清盛を見ているようだ。
<私事ながら>
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