学校の問題児の件数が「1998年度が12,858件,2018年度で 425,844件と33倍にもなっている」という事実。

<日本で子どもの人口が減少する中、「発達障害」と呼ばれる子どもは増え続けている。2006年に発達障害の児童数は7000人余りだったが、2019年には7万人を超えた。それに伴い、子どもへの向精神薬の処方も増加している。
 発達障害とされる児童数はなぜここまで増えているのか。そして、発達障害の早期発見、投薬は子どもたちを救っているのだろうか。特集「発達障害は学校から生まれる」の第7回では、発達障害と呼ばれる子どもが急増している背景について、障害児の教育史に詳しい東京大学大学院教育学研究科の小国喜弘教授に話を聞いた。

――発達障害が学校現場で問題となるようになった背景は?
 教育現場で「発達障害」が問題になったきっかけは、2つあります。
 1つは、1998年から問題となった「学級崩壊」。当時は1997年の山一証券倒産に象徴されるように、深刻な経済不況の時代でした。昔は「学級の荒れ」と言われていたものが、経済崩壊の比喩として学級崩壊と呼ばれ、「キレる子ども」が増えていると報道されるようになりました。
 もう1つは、1990年から2000年代にかけての少年犯罪の多発です。子どもが加害者・被害者となった「凶悪」と呼ばれる少年犯罪が起こりました。こうした学級崩壊と少年犯罪事件の原因として、発達障害が指摘されるようになりました。
 この時期は、教師の指導力不足や母親のしつけが問題視されていた頃でもあります。発達障害、つまり「脳機能の障害」が原因だとされたことは、教師や親からしても、ある意味ほっとする都合の良い事実だったとも言えます。

「脳の障害」は仮説に過ぎない

――2004年に成立した発達障害者支援法では、発達障害は「脳機能の障害」と定義されていますね。
 発達障害は個々の診断で脳を調べるわけではなく、子どもの行動の現れを医師が聞き取りをして、その行動について診断名をつけています。脳に何らかの機能障害があるというのは仮説であり、環境的な要因による障害と定義すべきだという医師もいます。
 ところが、法律で「脳機能の障害」と定義されたことと、学級崩壊や少年犯罪というセンセーショナルな話題が結びついたことで、一気に発達障害が浸透していきました。
――発達障害が問題視されるようになった1990~2000年代、学校ではどのような変化があったのでしょうか。
 1990年から20年間で、教師の精神疾患による休職者が約5倍になりました。
 休職者が伸び始めた1990年後半は、「指導力不足教員」が言われ始めた時期と一致します。行政側は、指導力不足教員をあぶり出すことを1つの名目に、教員への規制を強めていきました。
 その1つは、学校の職員会議の位置づけが明文化されたことです。それまで、職員会議は全会一致ではないと決めないといった民主的な議決の場でした。ところが2000年の学校教育法施行規則一部改正によって、職員会議は校長の学校運営を補助する機関に位置づけられ、教員たちの意思決定の機関ではなくなりました。教員への評価が給料に反映される、教員評価制度が導入され始めたのもこの時期です。

教師の自律的な判断力が奪われた

――教員の評価制度が導入されたことによる影響は?
 新たな教員評価は、学校への評価と一体で運用される場合が多く、個々の教師に目標達成のための自己管理、目標達成度の自己評価が求められていくこととなります。こうして、子どものためを考えて個々の教師が是々非々で判断する余地は狭められ、教師たちには学校の目標や上位者の判断に対する従順な心性が要求されるようになっていったわけです。
 教師の従順さを強化することになったのが、卒業式などでの日の丸掲揚・国歌斉唱の強制です。従わない教師が処分の対象とされ、教師の自律的な判断力がさらに奪われるようになっていきました。
 2007年には、教職員免許の更新制度を導入。同じ年に副校長、主幹教諭、指導教諭という役職が新たに設置され、職位による階層化が強化されました。教師たちも数値目標を立て、管理職から評価を受けるという体制が日常化されていきます。
 政府は2006年に「教育再生会議」を設置し、教育行政への首相主導が強まりました。地方でも首長が教育長を任命するようになり、教育委員会への首長の権限が強化されていきました。こうして、戦後は民主政治の拠点だった学校は、校長が経営する1つの企業のようになっていきます。
――教育再生会議は「ゆとり教育」を見直し、学力向上を打ち出しました。その結果、2007年には「全国学力・学習状況調査」(学力テスト)が始まりましたが、学校にはどのような影響があったのでしょうか。
 学力テストは首長の教育行政が発揮される場となりました。「1位の秋田県に追いつけ」というように、自治体間で学力の順位を競うようになったのです。
 点数が著しく低い子どもがクラスに1人いるだけで、テストの平均点は下がります。競争激化の中、東京・足立区の学校では一部の児童の答案を無断で除外したり、試験中に教師が指をさして正解を気づかせたりする不正が発覚しました。
 学力テストの導入と同じ2007年に始まった特別支援教育では、発達障害のある児童・生徒を対象にするようになりました。特別支援学級に籍が移れば、学力テストの対象からは外れることになります。
 多くの教師は意図的にそうした児童を外そうとしているわけではなく、その児童に「最適な場がある」という善意で、特別支援学級を勧めています。ただ、不正が起こるくらい、現場の教師たちはテストの点数を上げるプレッシャーを受けるようになったのは確かです。
――そうした状況下で特別支援学級に入る児童も増えています。その中でも、一部の発達障害が含まれる「自閉症・情緒障害」の児童は大きく増加しています。
 少子化であるにもかかわらず、特別支援学級に在籍する子どもは10年で約2倍に増えています。
 2014年に日本が批准した障害者権利条約は、障害のあるなしにかかわらず、地域の学校で共に学ぶことをうたっています。こうした「インクルーシブ(包摂的な)教育」への転換を迫られていますが、特別支援学級は事実上の分離教育となっています。
 国連のインクルーシブ教育は障害だけでなく、性差や民族差、能力差など、あらゆる子どもの包摂を目指しています。その中には天才児も含まれます。しかし、日本のインクルーシブ教育は障害だけに限定され、障害の軽減や克服に矮小化されています。
 障害名ではなく、その子が何で困っているのか。それをよく観察して、みんなでその子が過ごしやすい環境をどうやったら工夫できるか。そうした視点が欠けています。

マイノリティが発達障害と疑われる

――日本の学校では、貧困家庭や外国人の子どもは発達障害とされる割合が多いというデータもありますね。
 文化的、社会的資源が不足していると、学校の中では特異に見えます。マジョリティ(大多数)の子どもと違う行動をするマイノリティ(少数派)の子どもが、発達障害と疑われやすいのです。
 例えば、貧困の家庭の場合、家庭で十分なコミュニケーションがないとか、深刻な家庭の問題がある場合でも、十分に発達していないという問題と取られてしまうケースもあります。
 外国人児童については、特別な指導として日本語指導を入れていることもあります。ただ、その子がいると授業がうまく進まないなど、教師側から見ると特別支援学級を勧めるいろいろな条件があり得ます。外国人の場合、「学校とはどういう場なのか」という文化的な理解が違うこともあります。こうしたマイノリティの子どもたちの単なる「特徴」が、障害と結びつけられてしまうこともあります。
「発達障害」として見ることは、異文化や多様性の排除にもつながります。さまざまな論理が組み合わさる中で、何も悪くない子どもが排除されています。しかし、これは大人の都合です。教師は何かあると医師に丸投げし、善意の中で診断や投薬、特別支援学級へと切り捨てられていると見ることも可能です。
 学校では、マジョリティの人が当たり前だと思っている授業のやり方や慣習が、マイノリティの子どもの生きづらさになっています。そうした子が過ごしやすくなるよう、学校の文化や慣習を変えていく必要があります>(以上「東洋経済」より引用)




 小中学校の学級崩壊は過去の事だと考えている人が大半ではないだろうか。学級崩壊よりも、むしろ昨今はモンスターペアレンツ(苦情申し立て父兄)の方が問題だ、と捉えている人が多いのではないだろうか。
 だがそれはマスメディアの情報操作でしかない。現実は「文部科学省が2019年10月に発表した「平成30年度『児童生徒の問題行動・不登校生徒指導上の諸問 題に関する調査結果について』」によると,小学校において,1998年度が12,858件,2018年度で 425,844件と33倍にもなっている」という状況だ。マスメディアの役割からすれば、モンスターペアレンツ批判を繰り返し取り上げるのではなく、学級崩壊こそ問題視すべきではないだろうか。

 なぜ学級崩壊が多発しているのか。その主な原因は授業を壊す児童生徒がいるからだ。授業中に教室内を立ち歩くのは初歩で、大声を出して騒いだり教室ら出て勝手に校庭や校庭外へ出歩く。そうすると教師は授業を中断して児童や生徒を追っかけて保護しなければならなくなる。
 そうした問題行動を取る児童・生徒が二三人でもいると、授業が成り立たなくなって学級が崩壊する。そうした問題行動を取る児童生徒はADHD(注意欠如・多動症, 注意欠如・多動性障害, 注意欠陥・多動性障害)ではないか、との意見もある。

 ADHDと診断された児童・生徒を学級から排除すれば、学級崩壊が激減するのは分かっている。しかしADHDと診断された児童・生徒を学級から排除するのが困難な「人権」問題があるのも事実だ。教育を受ける権利がある、という主張をあながち否定できない社会的な雰囲気にも責任がある。
 教育現場で教師たちが疲弊しきっているのも事実だ。親にとって子供は誰でも可愛い。親にとって子供に「当たり」「外れ」などない。すべての子供がかわいいし「当たり」だ。どんな子供でも可愛いのが親だ。しかし批判を覚悟で書くが、学校現場に親の情を持ち込むのは如何なものだろうか。子供たちの「教育を受ける権利」を一部の子供たちが阻害しているとすれば、その子供たちは学級から排除されるべきではないだろうか。

 ADHDを持つ子どもは意識的に症状を予防あるいは軽減しようと試みても困難であり、本人の意図とは別にどうしてもじっとしていられず、学校で必要な持ち物を忘れたり失くしたりする。周囲の人たち(たとえば両親や教師)に厳しく叱責されるため、「どんなにがんばってもうまくいかない自分」という否定的な自己イメージを持ちやすく、家庭や学校においてつらい思いをしていることが見受けられるという。
 そのためADHDの特性があると診断される場合には医学的治療が必要となる。ADHDを持つ子どもの治療は「1. 環境への介入」「2. 行動への介入」「3. 薬物療法」などを組み合わせて行うと効果が高いといわれている。

「1. 環境への介入」とは教室での机の位置や掲示物などを工夫して本人が少しでも集中しやすくなる方法を考える物理的な介入法や、勉強や作業を10~15分など集中できそうな最小単位の時間に区切って行わせる時間的介入法などがある。
「2. 行動への介入」とは子どもの行動のうち、好ましい行動に報酬を与え、減らしたい行動に対しては過剰な叱責をやめて報酬を与えないことで、好ましい行動を増やそうという試みを行う。問題行動を抑制できたことやその頻度が減ることなどにも注目してしっかりと即座に褒めてあげることが重要だ。報酬を得点化して一定数になったら何らかの特別なご褒美・行事への参加(映画に行く・博物館に行くなど)につなげるようにする。この行動変容に関して、主として子どもに関わる保護者が学ぶトレーニングが「ペアレントトレーニング」として知られているし、また各地で実際に当事者の保護者が活動するペアレントメンターという制度も整ってきている。
「3. 薬物療法」とはメチルフェニデートという薬剤がADHDの不注意・多動-衝動性を軽減する可能性があるとして保険適用されているが、これは登録された医師や専門医療機関でのみ処方が可能で薬局の登録も必要とされている。その他、アトモキセチン、グアンファシン、リスデキサンフェタミンという薬剤も市場に出回っている。
 ただ多動症状を薬でただ押さえ込むようなスタンスの治療方針は良い結果を生まない。親の立場から見える子どもの問題と、子ども本人が感じている困難さは同じではない場合が多いようだ。家族と専門家・教師の連携はいうまでもなく重要だが、親子がしっかり連携して双方の「言い分」をやり取りできる雰囲気があると、ADHDを持つ子どもはこの障害を乗り越えるのに必要な力を得ることができる。

 ADHDを持つ子供を普通の学級で授業することが、その子にとって幸せかと云うと必ずしもそうではない。必要な措置とはいかなるものか、親も子供のADHDと向き合う必要がある。すべての子供は可愛いのは理解できるが、可愛がることは普通学級に放置することではない。然るべき対処法で治療すべきで、そのためにも専門医による診断が必要だ。
 学級崩壊は放置できない段階に達している。現在、学級崩壊がニュースに取り上げられないのはマスメディアの劣化と「人権問題」からの逃避でしかない。そして教育委員会が有名無実化し、教育現場の問題解決に無力な人材が漫然と日々を過ごしている、という実態が学級崩壊を悪化させている。年間に何人もの「イジメ」による児童・生徒の自殺者が出て学校関係者が慌てふためくのはなぜなのか。それは学級崩壊を放置し隠蔽しているからだ。文科省調査による問題児の件数が「1998年度が12,858件,2018年度で 425,844件と33倍にもなっている」という現実を真摯に受け止めるべきではないか。

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