「世界の工場」は中国からインドへ移るのか。

インド=カースト?
 日本ではインドといえばカースト、カーストといえばインドと思われている。またカーストといえば差別であり、差別の源泉であるカーストをなくせないのはインドの後進性のせいとも思われているようだ。
 こうした「偏見」(?)に対して、「インドではカーストはもうない」とか「カーストに上下はない」などと主張する海外在住のインド人も増えている。研究者からするとどちらも間違いなのだが、この間違いを正すのは簡単ではない。
 実は「カースト」という語はインドの言語にはない。これはポルトガル語の家柄・血統を意味する「カスタ」という言葉から派生した語で、もともとはアフリカやペルシア湾岸を訪れたポルトガル人が現地のさまざまな社会慣習や血族集団を指して、ほかのタームとともに用いたもので、とくにインド固有の社会制度や慣習に対して用いられていた語ではない。
 だが1510年のポルトガルによるゴアの占領以降、17世紀にはインド固有の、通婚と共食によって規制される一種の職業集団を意味する言葉として使われるようになり、19世紀初頭までには英語において、cast、casteとして受容されるようになる(藤井毅『歴史のなかのカースト』岩波書店、2003年)。
 一方で、インドの概念でカーストに対応するものは2つある。「ヴァルナ」と「ジャーティー」である。おそらく日本でなじみがあるのは、4つに分けられた階級制度のヴァルナのほうであろう。ヴァルナとはもともとは「色」を意味する。
 ヴァルナの四種姓と呼ばれるのは上からバラモン(司祭階級)、クシャトリア(王族・武士階級)、ヴァイシャ(商人階級)、シュードラ(農民・サービス階級)である。かつての不可触民であるダリトや山岳地域の部族民(アーディヴァーシー)はこの枠組みの外に置かれる。
 江戸時代に確立した士農工商という身分制度に似ていることから、こちらをカーストの本質として理解する人も多いかもしれないが、ヴァルナは理想社会の大枠を示したものにすぎない。
 またヴァルナは紀元前2世紀にまでさかのぼるといわれるダルマシャーストラなどのインド古法典で盛んに論じられているが、こうしたサンスクリット語の法典はバラモン階級のみがアクセスできるものだったことを忘れてはならないだろう。ヴァルナ概念がインド社会でどの程度受け入れられていたのかは、議論の余地がある。
 インド人の生活において最も実感をもって「生きられている」のは、むしろジャーティーという集団概念である。ジャーティーは世襲的な職業(生業)に結びつけられ、その内部でのみ婚姻関係が結ばれる(内婚制)。
 生業と内婚規則によって維持される、大工、石工、洗濯屋、金貸し、床屋、羊飼いなどさまざまなジャーティー集団があり、こうした多様なジャーティー集団の分業によってインド社会は維持されてきた。
 インド人やインド研究者がカーストという場合、多くはジャーティーを意味する。本書でも、カーストをジャーティーの意味で用いる。ジャーティーとしてのカーストの数は2000とも3000ともいわれるが、実際にカーストを数え上げることは困難だ。
 地域的な差異も大きいが、1つのカーストは、実際にはいくつもの副次的なサブ・カーストに分かれており、さらに実際に通婚する内婚集団としてみると、サブ・カーストよりもさらに下位のサブ・サブ・カーストであったりする。
 カーストは複雑な入れ子構造になっており、外からみれば1つのようであっても近くによれば何十もの異なるグループが内側にあることがわかる(ルイ・デュモン『ホモ・ヒエラルキクス』田中雅一・渡辺公三訳、みすず書房、2001年。原書は1966年初版)。

カーストの上下関係は何によって規定される?

 では、ヴァルナとジャーティーはどう対応するのだろうか? ジャーティーが職業集団とリンクしているのであれば、基本的には職業によって4つに分けられるヴァルナとも整合性がありそうである。
 だがそう簡単にはいかない。例えば、南インドにおいて石工や鍛冶屋などで作られるヴィシュヴァカルマというカーストは、創造神ブラフマーの直接の子孫であるとして、ヴァルナ位階において最高位のバラモンよりもさらに高い地位を主張してきた。
 だがほかのカーストからみれば、彼らはシュードラである。また農業にはカーストの規制がないが、植民地時代には「農民カースト」なるものが作られたりもしている(カルナータカ州のオッカリガ・カーストなど)。
 人口の多さゆえにインド独立以降の選挙政治で圧倒的な力を持ったこうした土地持ちの農民カースト(「支配カースト」と呼ばれる)は、他カーストからはシュードラと思われているが、しばしばクシャトリア階級に属すると主張する。先述のデュモンによれば、外部者が簡単になれるのはクシャトリアか不可触民ということなので、言わずもがなかもしれない。
 さて、カーストの上下関係は何によって規定されるのだろうか? 興味深いのはヴァルナでもジャーティーでもカースト制度のトップに立つのは司祭階級のバラモンで、実際に政治的・経済的権力を握っていたはずの王や武士たちは2次的な地位に置かれていることである。
 バラモンは知的労働のみ行い、肉体労働を避けるため、王や有力者からの支援なしでは生きていけない。だが彼らの儀礼的な地位は王よりも上である。植民地時代からカーストに関するさまざまな理論が生み出されてきたが、そうした理論を統合し、「浄と不浄の対立」というたった1つの原理でこの不思議を説明しようとしたのがデュモンである。
 浄と不浄の対立といっても、浄であるとは、極力不浄を排除した状態にすぎない。こうした浄の状態は、不浄に対して脃弱(ぜいじゃく)であり、浄性の低いカーストとの身体的接触は絶対に避けられなければならない。一方、不浄とは、死や殺生に伴うケガレ、生理や出産などの身体的なケガレによって生じるものである。
 動物の死骸の処理、と畜業、皮革業、清掃業、助産師などの職を伝統的に担ってきたダリトは、最も不浄な存在とされてきた。彼らとの身体的接触(もちろん結婚は論外)や体の中に取り込まれる食べ物のやりとり、同じ場所で食事をすること(共食)などが避けられるだけでなく、村落の中でダリトが住む場所も厳重に規制されてきた。
 ダリト差別の厳しさはわれわれの想像を絶するものであるが、浄・不浄という観念は日本の文化にもしっかり根付いていて、不浄に関わらざるをえない人々への差別と結びついてきたことを忘れてはならないだろう。被差別部落の長い歴史を考えれば、インドと日本は地続きだということがわかる。

どちらが正しいカースト?

 政治的・経済的な権力ではなく、浄・不浄という極めて宗教的で儀礼的な概念が優先されるというデュモンの説は多くの研究者によって批判されてきた。デュモンの理論は主に植民地時代に収集されたデータをもとにしているが、イギリス人植民地官僚への情報提供者は植民地政府に雇われたバラモンたちであり、バラモン中心の社会観が反映されたとしても不思議ではない。
 研究者の中には、王族や土地持ちの支配カーストを中心としたカースト社会のモデルを主張する人もいる。そのモデルでは、バラモンもダリトも支配カーストへのサービス・カーストにすぎない。ここではヒエラルキーは重要ではなく、支配カーストへのサービスと物的見返りが重要である。これは王権モデルと呼ばれる。
 どちらが正しいカーストのモデルなのかを判断するのは難しい。現実にはカーストの上下関係はやはり存在するし、カースト・ヒエラルキーでは中位の支配カーストが圧倒的な政治力を持ち続けているのも確かだ。
 カーストを数え上げ、その固定化に寄与したイギリスの植民地統治、そして独立後差別解消のために導入された是正処置である留保制度(リザベーションシステム)によってカーストはさらに政治化されている。カーストなどの出自による差別を禁じたインド憲法が存在するにもかかわらず、皮肉にもカーストの影響力はますます強くなっているようにみえる。
 最後に、それぞれのカーストの人口比はどのくらいなのかという単純な問いを考えてみたい。実は国勢調査のカースト別人口は1931年以降公表されていない。2011年の国勢調査でようやくカースト別の人口調査を行うことになったが、2020年の時点ではまだすべてが明らかにされていない。
 カーストがあまりに政治化してしまい、正確な人口比が公になることを恐れる政治家が多いからだ。
 ちなみに1931年の国勢調査によれば、バラモンは人口比4.32%(南インドではもっと低く3%程度)、ダリトの人口は2011年の調査で明らかにされており、それによれば16.6%と、実に2億人の人々がいまだ過酷な差別を受けている。そして、この数字をみれば、カースト別人口がわかることを恐れるのが、少なくともダリトたちではないことは明らかだろう>(以上「東洋経済」より引用)




 経済崩壊しつつある中国の次に「世界の工場」になるのはインドではないかといわれている。もちろん既にインドは人口で中国を凌駕して世界一だが、経済成長率でも7%台を示し成長率でも中国を抜いている。
 インドが経済大国への道を驀進すると衆目は一致している。その一方でインドには中国にない社会的な事情があって、経済大国になる道筋はかなりの困難を伴うのではないか、という見方もある。池亀彩氏(京都大学大学院准教授)が「インドのカースト「ただの階級でない」意外な真実ポルトガル語の「カスタ=家柄・血統」が語源」という論評を掲載していたので、引用させて頂いた。

 インドには別添図にある通り、厳格な階級(カースト)制度があった。「あった」というのは法律でカースト制度の撤廃が謳われたから、インド社会からなくなったことになっている。しかし、それは表向きで実際には現在もインド社会にカースト制度は色濃く残っている。
 池亀氏が指摘するようにカースト制度はポルトガル語のカスタが語源となっている。それは単なる階級制度というのではなく、「家柄・血統」という意味がある。だからインドでは名前を聞けば職業や階級が分かるという。

 断っておくが第14代大統領ラム・ナト・コビンド氏(71)は最下層のカーストである「ダリット」出身だ。インドの大統領は上下両院議員と州議会議員の投票によって選出される。クマール氏1844票に対し、コビンド氏は2930票を獲得して大勝した。ダリット出身のインド大統領は、ナラヤナン大統領(在任1997~2002年)以来2人目となる。コビンド氏は与党・人民党の候補で、最近まで東部ビハール州の知事を務めていた。野党・国民会議派の候補メイラ・クマール元下院議長も同じくダリット出身だった。
 ダリットは「不可触民」とも呼ばれ、インドのカースト制の最底辺層を構成する。伝統的に他のカーストから「不浄」と見られ、迫害や排斥の対象となってきた。

 日本にも江戸時代には「士農工商・エタ非民」といわれる身分制度があったではないか、と主張する人がいるが、日本の身分制度はインドのカースト制度と比べれば実にユルユルだ。なにしろ幕府直家臣「御家人株」ですら金銭で売買されていた。江戸末期から維新にかけて活躍した勝海舟は父親の代に「勝」御家人株を海舟の祖父に当たる人物が買い与えたものだ。
 食い詰めた農家の次・三男が町へ出て丁稚奉公し、そのまま町人になることもあったし、寺社の修行者となることも珍しくなかった。あるいは武士が家名を捨てて有名な絵師になったことも良く知られている。

 さらに特筆すべきはインドでは男女差別が依然として根強いことだ。JETROのホームページに「モディ政権も「ベティ・バチャオ ベティ・パダオ(ヒンディー語で『少女を救おう、少女を教育しよう』の意)」という女子乳幼児の保護と教育の促進政策を推進しており、政策に基づくプログラムの実施地域は167カ所から640カ所に拡大したという。また女性起業の振興に向け100万~1,000万ルピー(約160~1,600万円、1ルピー=約1.6円))の範囲での借り入れを可能にする「スタンドアップ・インディア」スキームが実施されており、これまでの貸付総額は約690億ルピー(約1,100億円)に上っているという」との記述が掲載されている。
 さらに「伝統的にインドの女性は、男性に比べ教育の機会が限られるなど、社会に出て仕事をするよりは家庭に入ることを優先させられてきた。こうした傾向は今でも貧困層や地方部で特に強い。働き手や後継ぎとして女性よりも男性が好まれてきたという文化や、人口の約8割を占めると言われるヒンズー教では、婚姻の際に新婦側家族が新郎側に持参金を用意する風習があり、家計の面から男の子供が望まれる傾向が強かった。インドで胎児の性別判断が禁じられているのは、こうした背景があるからである。しかしながら、国勢調査によると、0~6歳の男子乳幼児1,000人当たりの同年代の女子乳幼児の数は、1991年で945人、2001年で927人、2011年では918人と減少傾向にある。減少の背景は不明だが、健康上の理由など、必ずしも性別判断だけが関係しているとは言えないようだ」(以上「JETRO」ホームページより引用)とある。

 インドには「輪廻」という観念が色濃く残っている、という。国民の約8割が信仰しているヒンドゥ教がカースト制度を社会に根付かせたが、ヒンドゥ教では各階層に生まれたのは「輪廻」による、とされている。前世での行いが良かった者は上位カーストに生まれ、悪かった者は下位カーストに生まれる。「輪廻」により人の生涯は決まっているから、それを犯してはならない、という不可解極まりない、治世者にとって都合の良い宗教がインド社会を支配していた。いやインドを植民地支配した英国がヒンドゥ教を利用したというべきだろう。
 女性に生まれたのも「輪廻」だから、その境涯を受け容れなければならない、という社会的な圧力が女性の教育機会を奪い社会進出を阻んだ。そうした「輪廻」観を打ち破らなければ、インド社会のモビリティーは大きくならない、経済成長を阻む大きな要因になりかねない。

 さらに挙げれば、インド人のモラルにも触れなければならないだろう。私たちは日本人の目で相手を見るから、韓国人や中国人が契約遵守が乏しいと思うが、彼らから見れば「契約」など紙切れでしかない。近頃は日本国民にも「オレオレ詐欺」が横行し、「闇バイト」で法律無視の強盗を平気で働く輩がいるが、インド人に詐欺や騙りが多いのも経済進出を阻む大きな要因になるだろう。
 そうした断片はインド政府にも見られ、日本が呼び掛けた「インド太平洋連携」に参加して対中牽制を行う一方で、中国がロシアから爆買いしたロシア原油をインドが中国から大量に買い付けたりしている。無節操といえばその通りだが、節操を守ってミスミス「利」を失うのは愚かだ、というプラグマティズムの思想がインド政府に沁み込んでいる。インド進出を計画していた半導体企業が相次いで撤退を表明した理由の一端に、インド人のそうした「あり方」が影響しているかも知れない。「世界の工場」が中国からインドへ移動する、と考えるエコノミストはグローバリズムの虜になっているのではないか。むしろサプライ防衛を経済効率よりも優先する世界になるのではないだろうか。そうした方向で動くようになるとすれば、インドに一極集中することはない。つまり「世界の工場」がインドになることはないと考えるべきではないだろうか。


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