国滅びてプライマリーバランスあり。ーー財務省

<元大蔵省(現財務省)事務次官の齋藤次郎氏が、『安倍晋三 回顧録』の中で安倍元首相が財務省について批判したのに対して、反論している(『文藝春秋』5月号)。
 安倍元首相は、財務省について「国が滅びても、財政規律が保たれてさえいれば、満足なんです」「省益のためなら政権を倒すことも辞さない」などと批判したのである。
 これに対して、齋藤氏は、「財政規律が崩壊すれば、国は本当に崩壊してしまいます。大幅な赤字財政が続いている日本では、財政健全化のために増税は避けられず、そのため財務省はことあるごとに政治に対して増税を求めてきました。それは国家の将来を想えばこその行動です」と反論している。
 実は、齋藤氏は、この反論の中で、極めて重大な問題を暴露していた。

「財政規律の大原則」に根拠はあるのか

 そもそも、「財政規律」というのは、いかなる状態を維持することを指すのであろうか。
 一般的には、財政の健全性を表す指標は、「政府債務残高/GDP比」が発散しないようにすることだとされる。
 ただ、実際に政府が自らに課している財政規律は、国によって異なる。
 例えば、アメリカでは、政府債務の上限が法定されている。しかし、議会の承認が得られれば、上限を超えて国債を発行できることとされている。ちなみに、本稿執筆時点では、その債務上限の引き上げに関する議会の承認が得られる見通しが立っていないため、アメリカ政府は国債を発行して政府支出をすることができず、デフォルトするのではないかと懸念されているところである。
 また、EU(欧州連合)諸国は、「対GDP比財政収支」を指標としている。例えば、財政規律を重視することで知られるドイツでは、憲法(基本法)によって、連邦政府は「対GDP比財政収支」を原則▲0.35%以内にしなければならないと定めている。ただし、不況時には新規国債発行の増加を認めており、また「自然災害又は国家の統制が及ばず、国家財政に甚大な影響を与える緊急非常事態の場合」には、財政ルールの適用を停止できることとされている(渡辺富久子「ドイツにおける財政規律強化のための基本法の規定」『外国の立法』268号、2015年3月、pp.80-81)。
 このように、財政規律の指標は、国によって異なっている。ちなみに、財政収支のルールを財政規律にする場合は、「対GDP比財政収支」とするのが一般的である(Luc Eyraud et al., ‘Fiscal Policy: How to select fiscal rules: A Premier’, How to notes, No.9, 2018.3.)。
 では、齋藤氏(そして財務省)が想定する「財政規律」とは、何であろうか。彼は、次のように書いている。
 入省して(注 1959年)、徹底的に教え込まれたのは、財政規律の重要性でした。「財政の黒字化は当たり前のことでなければならない」、「赤字国債は絶対に出すな。」……毎日のように先輩から言い聞かされました。
(中略)
私も予算査定の際には、主計局の上司や同僚にしょっちゅう議論を吹っ掛けられていました。そうやって厳しく教育されながら、大蔵官僚たちは「財政規律の大原則」を脈々と受け継いできたわけです。
 驚くべきことに、財務省が脈々と受け継いできた「財政規律の大原則」とは、「財政の黒字化は当たり前のことでなければならない」ということだと齋藤氏は証言したのである。
 欧米諸国にも財政規律は存在するが、すでに述べたように、その指標は、政府債務残高の上限であったり、あるいは対GDP比で見た財政赤字の比率であったりと、一定の財政赤字が許容されている。「財政の黒字化は当たり前のことでなければならない」などという発想はない。
 それも当然である。なぜならば、財政の黒字を当たり前のことにするのは、極めて難しいだけではなく、そもそも、望ましいことではないからだ。

財政黒字は「バブル」の発生と表裏一体

 簡単に説明すると、次のようになる。
 まず踏まえるべきは、世界中の政府及び民間主体が、すべて「黒字化」することはできないということである。言うまでもないが、誰かの債権は、別の誰かの債務である。誰かが収支の黒字を計上すると、その裏で、別の誰かが赤字を計上しているというわけだ。
 したがって、一国の経済を「政府部門」「民間部門」「海外部門」に分けると、収支は次のようになる。
「政府部門の収支」+「民間部門の収支」+「海外部門の収支」=0
 この式からわかるように、「政府部門の収支」の黒字を当たり前にするということは、「『民間部門の収支』+『海外部門の収支』」の赤字を当たり前にしなければならないということになる。
 ちなみに、「海外部門の収支」の赤字とは、経常収支の黒字のことと考えてよい。
 さて、日本経済の場合、「海外部門」の占める割合は比較的小さいので、いったん除外して考えると、財政黒字が当たり前であるためには、民間部門の収支が恒常的に赤字でなければならない。
 すなわち、企業や家計といった民間主体が、全体として、つねに債務超過でなければならないということだ。
 そういう経済状況が何を意味するのか。それは、バブル景気である。
 実際、日本の財政赤字は、1980年代後半に縮小し、プライマリー・バランス(基礎的財政収支)は1987年度に黒字化し、1991年には8.8兆円の黒字を達成した。しかし、その裏側で、民間部門は、バブル景気に沸き立って、借金を重ねていた。したがって、バブルが崩壊すると、民間部門は債務を縮小させ始め、それに伴って財政赤字が拡大していった。
 同様に、アメリカでも、1990年代後半に財政赤字が縮小し、1998年度には財政黒字を計上したことがあったが、その裏側では、いわゆるITバブルが発生していたのである。
 このように、財政黒字は、その裏側でバブルが発生している可能性を示す兆候と考えるべきである。しかし、バブルは長くは続かないのだから、財政黒字が当たり前のことになるはずがない。しかも、財政黒字がバブルの発生の裏返しであるならば、それは、政府が目指すべきものでもない。
 齋藤氏は、財政の黒字化を目指して増税を求めてきたと証言している。しかし、増税が景気の悪化を招けば、民間部門はかえって債務を削減しようとするから、その裏返しで、財政赤字はさらに増えることになる。しがたって、増税しても、財政の黒字化は不可能であり、むしろ逆に財政赤字を拡大する可能性すらある。

国破れて黒字あり

 では、民間部門の大幅な赤字(バブルの発生)を回避しつつ、財政黒字を当たり前のことにするには、どうすればよいのであろうか。
「『政府部門』の収支の黒字=『民間部門と海外部門』の収支の赤字」なのであるから、海外部門の収支の赤字(経常収支黒字)を大幅に計上するしかない。
 しかし、日本のような内需の占める割合が大きい大国で、財政黒字が当たり前になるほど巨額の経常収支黒字を計上し続けることは、不可能である。実際、財政黒字が恒常化している国の多くは、内需の小さい資源輸出大国である。つまり、経済構造が日本と正反対の国々だ。
 仮に、経常収支黒字を目指すのだとしても、経常収支は、海外経済の景気動向に大きく左右されるため、政府がコントロールできるものでもない。
 例えば、世界経済が不況になれば、経常収支の黒字幅は縮小せざるをえないだろう。それでも、経常収支の黒字化を目指して輸出を拡大しようとしたら、それはいわゆる「近隣窮乏化政策」であり、禁じ手である。
 したがって、「財政の黒字化は当たり前のことでなければならない」などという「財政規律の大原則」は、原理的に達成できないというだけではなく、達成するのは望ましくないという代物なのである。
 それは、「『政府部門の収支』+『民間部門の収支』+『海外部門の収支』=0」であることを考えれば、当然である。
 齋藤氏の証言によれば、財務省は、そんなことも知らずに、「財政の黒字化は当たり前のことでなければならない」と固く信じ込み、それを組織として脈々と受け継ぎ、政治に対して増税を求めてきたということになる。
 それでは、「国が滅びても、財政規律が保たれてさえいれば、満足」だと批判されても、仕方あるまい>(以上「東洋経済」より引用)




 中野剛志氏( 評論家)が「国家の存亡より「財政黒字」を優先する思考回路財務省で伝承されてきた「財政規律の大原則」」と題する論評で「財政黒字化論者」の筆頭・齋藤次郎氏を批判している。
 私も愚かな「財政黒字化論」によって日本が滅ぶのを見るに忍びないと考えて、財政黒字化論を幾度となく批判してきた。しかし、ここに来て岸田自公政権が闇雲に見当外れの政策の「財源論」として税負担増等を主張しているため、国家と国民のためにもまたまた「財政黒字化論」を批判しなければならない。

 日本はすべての意味で経済成長しなければならない局面に到ってい。最近の30年間で世界平均並みに経済成長していれば、国民所得は確実に二倍以上になっている。約1,000万以上になっているだろうし、そうすれば防衛費二倍論も出る余地はなかった。
 もちろん増税議論もないだろうし、国民負担を増やす必要すらない。そうした高度経済成長時代を再現する政策を拒否して、ただひたすらに国民貧困化へと突き進んだ。それが自公政権がやって来た「財政均衡論、黒字化」に基づく政策だ。

 ただ景気がバブル状態なら、景気を冷やすために政府は財政出動を抑え、日銀は公定歩合を引き上げなければならない。そうしなければ物価高騰を招き、国民所得の格差が拡大するばかりだからだ。
 しかしバブルが一段落し、経済が鎮静化したなら経済が適正成長すべく日銀は公定歩合を引き下げて景気を刺激し、政府は需要拡大のために財政出動する、というのが経済学の書物に書いてある基本的な経済政策のあり様だ。しかし日本では日銀だけが異次元金融緩和を行い、政府は法人税減税や富裕層の所得減税を行う反面、最近の30年間は一貫して一般国民への税負担や公的負担を増やしデフレ化政策を続けた。

 その最たるものが消費税だ。「安定財源」の確保、というのが財務省のスローガンだったが、それは貧困世帯も含めた国民全てから可処分所得を奪う税でしかない。つまり究極的な景気後退策でしかない。
 そうした税が経済に及ぼす効果を全く考慮しない愚かな政治家や、「国が借金しているのなら国民が等しく負担するのもアリか」というマスメディアが大宣伝した財務省理論に国民も洗脳され、消費増税に国民の激しい反対も起きなかった。もちろん財界からも反対の声も湧き上がらなかった。かくして、日本は衰亡の30年間を過ごしてきた。

 世界各国のGDPが最近の30年間で平均して2~3倍になった、ということは世界から見れば日本のGDPは1/2~1/3に縮小したことになる。つまり日本国民はそれだけ貧困化したことになる。直近の株価上昇をマスメディアは慶事のように報道しているが、円安による相対的な株価下落が海外投機家たちの「買い」を誘発しているに過ぎない。決して半年先の経済指標として株価が機能しているわけではない。
 円安の日本が外国から買い叩かれているのは株だけではない。無能・無策の政府によって北海道の山林や原野ばかりでなく、京都の町屋が一棟毎ごっそりと中国人によって次々と買われている。もちろん都市部のマンションも町工場も買われている。なぜ「互恵主義」を厳しく適用しようとしないのだろうか。政治家たちは「政治ゴッコ」をして日々を過ごしているが、日本国民は国の宝を次々と外国人によってか言われている、という現実に厳しく対処すべきだ。

 バカ息子を筆頭秘書官に登用するのではなく、有能な人材こそ、首相は広く登用すべきだろう。マネイジメントや危機管理すら出来ない息子をやっと更迭したようだが、その程度の人事が政府官邸で行われているとは世も末だ。
 財務省は省益あって国益ナシの典型例だ。こんな省が国を支配しているようでは日本は滅ぶ。国民は貧困のうちに外国人が支配する国の奴隷になりかねない。国民は選挙へ行って、国民のための政治家を選択すべきだ。国民のための政治家とは経済成長を説き、国民所得倍増を説く政治家だ。

このブログの人気の投稿

それでも「レジ袋追放」は必要か。

麻生財務相のバカさ加減。

無能・無策の安倍氏よ、退陣すべきではないか。

経団連の親中派は日本を滅ぼす売国奴だ。

福一原発をスーツで訪れた安倍氏の非常識。

全国知事会を欠席した知事は

安倍氏は新型コロナウィルスの何を「隠蔽」しているのか。

自殺した担当者の遺言(破棄したはずの改竄前の公文書)が出て来たゾ。

安倍ヨイショの亡国評論家たち。