日本に経済成長を甦らせよう。

<経済成長、とは誰もが日常的に聞く言葉だと思う。経済成長は世の中の活力にとって大切だ、と議論する人々がいる一方で、経済成長は環境によくないから止めるべきだ、と議論する人々もいる。「政府はどのような成長政策を実施すべきか」のような政策議論も盛んである。しかしながら、経済成長とは何か、と問われるときちんと答えるのは意外と難しい。ここではマクロ経済学の立場から説明を試みたい。

 マクロ経済学でいう経済成長とは、時間を通じて国内総生産(GDP)が増えることである。では、GDPとは何かというと、国内で生産される付加価値の総和のことである。では付加価値とは何かというと、企業が財(やサービス)を生産するプロセスで「付け加えた」価値のことである。例えば自動車を造る会社を考えると、売った自動車の価値から部品会社への支払いを差し引いたものが「付加価値」となる。まとめると、経済成長というのは国内で新たにつくり出される総価値の増加である。
 では、「価値」とは何か。哲学者に尋ねたら、何冊も本が書けるほどの答えが返ってくるかもしれない。しかしながら、経済学者の答えは簡単で、「価値」とは「価格×数量」のことである。だから、経済成長とは、時間を通じて「価格×数量」の和が増えること、となる。
 例として、まず価格が一定のケースを考えよう。人々がリンゴだけを作って売買し消費する経済があったとする。ここである年に前の年より10個多くリンゴが生産され売買されたなら、GDPは「リンゴの価格×リンゴ10個」分増えるため、この経済は成長した、と自然に結論づけられる。
 次に、価格が変化する例を考えよう。実は、このケースは一筋縄ではいかない。再びリンゴ経済を考える。ある年と次の年のリンゴの生産量が同じだったとして、最初の年から次の年にかけてリンゴの価格が上がったとき、この経済は成長したというべきだろうか。「価格×数量」を文字どおり捉えるならばGDPは増えている気がするが、マクロ経済学者はもう少し深く考える。その思考を理解するには、「そもそも、なぜGDPを気にするのか」というところから始める必要がある。

GDPは幸福度の指標

 マクロ経済学者がGDPを気にするのは、それが幸福度の指標になっていると考えるためである。しかし、前述のように2つの年でリンゴの生産量が変わらないなら、価格がいくらになろうと、幸福度が変わると考えるのは不自然である。そのためマクロ経済学では、GDPを計算する際に財の価格の変化を調整する手続きを行い、調整前のGDPを「名目GDP」、調整後のGDPを「実質GDP」と呼んで区別している。
 実際にどのような調整が行われているかを網羅する紙幅はないが、基本的なアイデアは、ある年の価格を基準として用いる、というものである。この手続きをすると、2つ目のリンゴ経済では実質GDPは(数量が同じなため)両年とも同じ値ということになる。
 マクロ経済学では実質GDPを最も重要な指標と考える。実際、データを見ると各国の実質GDP(正確には「1人当たりの実質GDP」)は主観的な幸福度と強い相関関係があることが知られている。先ほどの文章はより正確には「経済成長とは、時間を通じて実質GDPが増えることである」ということになる。

 さて、「価格」の役割を考えるため、もう少し複雑な経済を見てみよう。2つの財、「普通のリンゴ」と「甘いリンゴ」があるとする。普通のリンゴの価格はつねに50円、甘いリンゴの価格はつねに80円だとして、最初の年は普通のリンゴも甘いリンゴも10個、次の年は普通のリンゴが9個で甘いリンゴが11個作られたとしよう。すると、「価格×数量」の和は、最初の年は「50×10+80×10」、次の年は「50×9+80×11」、となる。
 ここで価格がそれぞれの財の数量に掛けるウェートになっていることに注意してほしい。大切なのは、価格が高い財ほどウェートが高い、ということである。
 なぜ価格が高い財ほどウェートを高くするのだろうか。この計算の背景には、「価格は消費者の主観的な好みの強さを反映する」というミクロ経済学の重要な結果がある。普通のリンゴと甘いリンゴの両方を買っている人がいたら、その人の好みの相対的な強さ(正確には、次に買う1個のリンゴへの好みの強さ)を50:80という比率で表すことができる、と考えるのである。
 例に戻ろう。この例ではそれぞれの財の価格が変化していないため、名目GDPと実質GDPは同じである。数字を比べてみると、「50×10+80×10」よりも「50×9+80×11」のほうが大きい、つまり、この経済は成長している、と結論づけることができる。ここでは、最初の年から次の年にかけて、トータルのリンゴの数は20個で変わらないにもかかわらず経済は成長している。
 一般化すると、数量は変わらなくても、つくるものの中身を「消費者が高い価格を払ってもよいと思っている財」にシフトさせれば、経済成長を達成できる。

経済成長への誤解

 「経済成長は悪」と議論する人には、経済成長を達成する手段は数量を増やすことのみ、と誤解している人が多いように思う。しかし先進国では、経済成長のエンジンは数量ではなく、新しいアイデアや技術により財・サービスがより質の高いものになっていくことである。例えば医療分野での成長には、薬をより多く造ることよりもむしろ、人々がより高い価格を払ってもいいと考える新たな治療法や新薬の創造のほうが重要である。
 「よりおいしい料理」「よりよいデザインの服」「より感動を与える絵画」などは、同じ材料からより高価格で売れる財をつくることができる例である。「成長政策」を考える際には、この側面を忘れないでほしい。
 また、環境や資源の問題は重要な政策課題である。マクロ経済学者としては、その議論の際、財の質を考えると「環境に負荷がかからない経済成長」も可能であることを覚えていてほしいと思う>(以上「東洋経済」より引用)




 経済成長とは何か、という疑問に対して引用論評はマクロ的観点から答えている。題して「「経済成長」とは何か、マクロ経済学者の考え方やり方次第で環境負荷の少ない経済成長も可能」と、経済成長は必ずしも量的拡大のみを意味しない、という極めて当たり前のことを大真面目に説明している。
 私はこのブログでしばしば「生産性の向上=経済成長」だと説明してきた。生産性の向上とは簡単にいえば単位労働で生産する数量が増えることだ。しかし、それだけではない。GDPの拡大には必ず技術革新が伴うからだ。

 例えば自動車製造に生産性向上をもたらしたものにフォードのベルトコンベア方式がある。その生産方式をさらに発展させたのがトヨタなどが行った製造ロボットの導入だ。
 製造ロボットの導入を可能ならしめたのは各種制御装置の開発だ。制御装置を精密に動かすためにはマイコンの導入が欠かせない。つまり「制御装置」という技術革新があって、生産性が向上した。

 それは同時に労働者を重い物を担ぐことや、溶接などといった熟練工の技が必要な労働から解放した。つまり生産性の向上とは労働の質を改善することでもある。だが安価な労働力が豊富に存在していれば、経営者は研究・開発に投資して労働者の仕事を快適なものにしようとはしないだろう。
 生産性の向上は労働者の仕事の質を改善することでもある。だからトヨタに代表される労働者提案による作業現場から出た「カイゼン」提案を経営者が積極的に採用するのだ。さらに新製品開発も生産性の向上をもたらす。ソニーのウォークマンが有名だが、それはテープレコーダーの再生部分のみをカセット・テープ大に小型化して製品化した。それによりソニーの製品出荷数は飛躍的に伸びた。つまり新製品開発により生産性が向上したことになる。

 GDPの拡大は不要だ、と主張する愚かな経済学者や政治家がいる。そして各種アナリストたちは経済を現状のままに止めて、未来予測をする。財政アナリストの最たる人たち・財務官僚たちが税収モデルを描く場合は概ね現状のGDPを未来にそのまま当て嵌めている。それでは同じ大きさのパイ(GDP)を国民と国が奪い合う、対立の構図しか描けない。そうした未来予測は国民にとっても国家にとっても不幸なだけだ。
 両者が幸せになるためにGDPの拡大は不可欠だ。多くの人が日常生活で直面している危険な生活習慣は自動車の運転ではないだろうか。巨大な移動エネルギーを有する鉄の塊が相対立するベクトルで擦れ違う対面道路は危険そのものだ。だから私は数年前から全自動化していない自動車は欠陥工業製品だと自動車業界を批判してきた。工業製品を購入して使う顧客を不幸に陥れる可能性のある機器を、そのまま百年以上も製造・販売して来た自動車企業は怠慢の誹りを免れない。いや自動車とはそういうものだ、というのは現代の誤った常識でしかない。未来人から見れば19世紀から21世紀にかけての時代を「エンジンにハンドルとブレーキを付けただけの代物で、ヒトの生活圏を疾走していた物騒な時代だった」と批判するだろう。

 未来から現代を俯瞰する「目」を養おう。そして人がもっと幸福になるにはいかなる政策が必要かを科学しよう。もちろんMMT理論も経済と財政運営を科学する上で重要な理論の一つだ。「ザイム真理教」の教徒となって、国民負担ばかりを強いる政策から脱却しよう。さもなくば、日本は衰亡の坂道を転がり落ちるだけだ。
 日本国民がより多く負担しなければ「未来の日本国民」が多くの負担を返済しなければならない、というロジックは「ザイム真理教」が唱える呪文でしかない。先進自由主義諸国で国債発行を必ず償還すべき、として「60年償還資金」を国債費に含めて積み立てているのは日本だけだ。なぜなら日本以外の先進自由主義諸国は国債の償還など財政運営に入ってないからだ。つまり国債償還は税や国民負担で行うのではなく、経済成長により自然と償還され国債残は解消されていくものだ、という考え方が定着している。

 日本政府には「裏帳簿」があって、国債償還原資として地方自治体でいうところの「減債資金」のような積立金が「埋蔵金」として積み立てられている。それを吐き出せば43兆円の防衛費倍増予算など簡単に手当てがつく。もちろん子供手当の増額や児童・生徒の給食費の無償化など簡単に決着がつく。
 しかし「ザイム真理教」に洗脳された愚かな政治家たちの群は「国民負担」「国民負担」という呪文を唱えてばかりいる。そして日本を発展させるどころか、衰亡させているのだから何をかいわんや、だ。バカバカしい限りだが、その政治家諸氏を選んだのは国民だから、自らの投票(あるいは棄権)によって現行の自公政権を維持しているのだから世話はない。いい加減目を醒まして、国民が幸福になるための政治を政治家に求めようではないか。夢を語らないで負担ばかり求める政治家は「ザイム真理教」の信徒で、国民の敵だと思えば良い。

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