政権周辺にたむろする御用評論家。

<キャスターの辛坊治郎氏(66)が15日、ニッポン放送「辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」(月~木曜後3・30)に出演。9月27日に実施される安倍晋三元首相の国葬について私見を語った。

 辛坊氏は「国葬のイメージというのは、国家元首たる天皇陛下が参列をされて、社会的には休日になって、国民全部で喪に服すというのが国葬の本来的な在り方だと思う」と指摘。その上で「総理大臣が今は岸田さんですね。国葬をすると決めたのなら、国葬をすべきであって、現状において天皇陛下の参列がない、休日にもならない、国民に喪に服すことも求めない、費用は国が負担します。これって国葬じゃなくて、国が費用を負担する葬儀じゃないのか?」と私見を述べた。

 国葬開催にあたり、「各国全世界を見渡した時に元首は一人も来ないですよ。それは当たり前の話で、だって当事国は元首が参加しないのに海外に対して元首の出席は求められないよね」とバッサリ。「国葬にするんだったら、ちゃんと国葬をやれよと。やれないんだったら、それが議論になるような不体裁のことをするなと。凶弾に倒れた人に対して、葬儀をすることに対して賛成だとか反対だとか、その人が在任中の実績がああたらこうたらって議論すること自体が非常に不快。こういうことがきっかけになって、亡くなった方のある意味誹謗中傷も含めてだよ?するきっかけになっちゃっているわけで、そんなことをする必要があるかと…」と続けた。

 最後には「岸田総理大臣が、当初から無責任だと思うのは国葬ならば元首が出席する中で世界中の元首が来るという形をつくってちゃんと国葬をすべきなんだけど」とし、「それが出来ないんだったら従来の慣例通りの葬儀にした方がよっぽど変な議論にならずに済むんじゃないか」と自身の考えを語っていた>(以上「スポニチ」より引用)



 呼ばれなかったことで辛坊氏が正気に返ったようだ。「安倍国葬儀」の愚かしさについて、初めてマトモな見解を述べている。
 つまり「安倍国葬」が極めて「国葬」に近い装いをしても、それは閣議決定で決めた「国葬儀」でしかなく、マスメディアが揃って「仰々しく」国葬報道をしても、所詮は内閣主催の儀式・典礼の類でしかない、ということだ。

 そうした化けの皮を剥がしたところで「安倍国葬」を語らなければならないのにも拘らず、マスメディアにそうした視点が欠落しているのは報道業界に携わる人々の見識が極めて劣化している証拠ではないだろうか。
 辛坊氏もそうした放送業界で長年「禄」を食み、奉職してきたため見識が劣化しているのかと思っていた。しかし最後の徳俵に踵が掛かって目覚めたようだ。当初は「なぜ俺が国葬な呼ばれないのか」と憤慨していたが、冷水を浴びて我に返ったようだ。

 つまり日本の政治はかくも劣化している、ということだ。政治家もだが、閣議決定の「国葬」を法的に問題がないとした内閣法制局の官僚たちはもっと下劣に劣化している。相手が誰であろうと、法律に準拠して立憲制度のあり方を墨守するのが官僚たちの責務だ。しかし、そうした気概も気迫も見識も、官僚たちから消え失せたようだ。
 国民は政治家の資質を見極めて選挙で投票すべきだ。自分たちの「国権を付託するに足る人物か」をよくよく確認して投票しなければ、今度の「国葬」騒動のように国際的な失笑を買うことになる。それでもマスメディアは「弔問外交だ」と必死に持ち上げているが、外交官程度の外国要人と一人20~30分で次々とマラソン会談するのが「弔問外交」とは笑わせる。それとも日本の外交とは外国の外交官と「挨拶」を交わすのが外交なのか。

 岸田氏は「国民の声を聞く」をキャッチフレーズにしていたが、彼の「聞く」は「聞き置く」ことなのだろう。何を言われようと「聞く」だけで、聞いた声を政治に生かすことなど考えもよらないようだ。
 つまり「言わせておけば良い」ということと同義語で、意味は「聞き流す」ことだ。それでは「国民の声を聞く」ことにはならない。安倍政治とは何だったのか、御用評論家が官邸周辺にたむろして、安倍政治を賛美する、という言論界の見るも無残な劣化を招いたのも安倍氏のもたらした「負の遺産」というべきだろう。辛坊氏も言論界に身を置く者として、言論界の劣化に手を貸していたが、「国葬儀」に呼ばれなかったショック療法で「正気」に帰ったようだ。

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