日本本土と沖縄の分断を画策する者。
<連載「街道をゆく」で各地を旅した作家・司馬遼太郎氏が沖縄を訪れたのは、1974年4月だった。沖縄の1年のうちで最も過ごしやすい「うりずん」と呼ばれる季節だ。
だが司馬氏は物思いに沈む。
見聞きする断片のどれもが、「そそり立つようにして自己を主張して」おり、「一体、日本とは何かということを否応(いやおう)なく考えこまされてしまう」と書いている。
当時の沖縄には、いま以上に、特有の文化や風景が残っていたに違いない。それらは本土とは少し異なり、同時につながりも感じさせ、「日本」のイメージの修正を迫る。
沖縄が日本に復帰して、きょうで50年を迎える。
島の置かれた状況を見ると、司馬氏と同じ言葉を、違う意味で繰り返さなければならない。
いったい、日本とは何なのか――と。
■日米両国のはざまで
復帰の日を、日本は4月1日にしたいと望み、米国は7月1日を主張した。間をとった「5月15日」になったことは、両国に翻弄(ほんろう)され続けてきた沖縄の歴史そのものに見える。
戦争中は本土決戦までの「捨て石」とされ、戦後は米軍の統治下に置かれた。日本は憲法9条を掲げる一方で、国土の防衛を米国に頼ることを決め、直前まで「統治権の総攬(そうらん)者」だった昭和天皇は「琉球諸島の軍事占領の継続を望む」とのメッセージを米側に伝えた。
米軍は県内に多くの基地を建設し、あわせて、住民の反対運動などで本土を追われた部隊を次々と沖縄に移転させた。
自らの意思と関係なく、他人に物事を決められてしまう境遇から脱したい。基地を「本土並み」に減らしたい。それが復帰を迎える沖縄の願いだった。
現実は違った。
負担はいっそう重くなった。国土面積の0・6%の島に米軍専用施設の7割が集まる異様な姿は、復帰後に「完成」した。
「銃剣とブルドーザー」で住民の土地を奪い、軍政の最高責任者が「沖縄の自治は神話である」と言い放つ。そんな異民族統治は確かに終わった。だが、日本国民が選挙によって国政を託した政府の行いも、本質において変わるところがなかった。そう言わざるを得ない。
機動隊や警備船を繰り出し、県民が何度「ノー」の意思を示しても聞く耳を持たず、情報を隠し、脱法的な手法も駆使して異議申し立てを抑え込む。辺野古の海の埋め立てをめぐって、国が現にやっていることだ。
沖縄はずっと基地負担の軽減を訴えてきた。2010年ごろからは「本土による差別」という指摘が加わった。
「甘えているのは沖縄ですか。それとも本土ですか」
翁長雄志(おながたけし)前知事が生前に放った、矢のような言葉である。
■「ひめゆり」の懸念
これに対し、本土は「慣れ」というよろいを厚くして、そこに逃げ込もうとしているように映る。難題から目をそらし、沖縄の犠牲の上で平和を享受してきた戦後の歩みを忘れたかのように、「安全保障のためだから仕方ない」「いつまで不満を言っているのか」と突き放す。最近は声をあげる沖縄を中傷・攻撃する言説も飛び交う。
気になる数字がある。
沖縄の米軍基地を今後どうするのがよいかを聞いた朝日新聞の全国世論調査の結果だ。10年前は「いまのままでよい」が21%、「縮小」「全面的に撤去」が計72%だった。調査方法などが異なるため単純に比較できないが、今年は現状維持が41%とほぼ倍増し、縮小・撤去の計52%に迫る結果となった。
沖縄戦でひめゆり学徒を率いた仲宗根政善(せいぜん)氏は復帰を前に、日記にこう書いた。
「十年後に本土並みの基地になるのか二十年後になるのか、全く予測はつかない。悪くすると、半永久的にならないとも限らない」
予言が現実味を帯びる。それが復帰50年の到達点とすれば、いったい、日本とは何なのか。
■首相の言、果たす責任
「日本の政府はあらゆる方法をもって琉球を利用するが、琉球の人々のために犠牲をはらうことを好まない」。米国の歴史学者G・H・カー氏の1953年の著作の中の言葉だ。一面の真実を言いあてたものと、沖縄では受け止められてきた。
違うと言うのであれば、行動で示さなければならない。
近年の中国の軍事力の伸長を受けて、米国は大規模な基地に依存するのは危険と考え、部隊を分散配置し、機動的に展開していく戦略への転換を進めている。県の有識者会議は昨年、この機をとらえて、沖縄の米軍を県外に移転させることは可能とする報告書をまとめた。
50年前の復帰記念式典で、佐藤栄作首相は「今日以降、わたくしたちは同胞相(あい)寄って、喜びと悲しみをともにわかちあうことができる」と述べた。
この言葉をウソにしてはならない。責任は本土の側にある>(以上「朝日新聞」より引用)
だが司馬氏は物思いに沈む。
見聞きする断片のどれもが、「そそり立つようにして自己を主張して」おり、「一体、日本とは何かということを否応(いやおう)なく考えこまされてしまう」と書いている。
当時の沖縄には、いま以上に、特有の文化や風景が残っていたに違いない。それらは本土とは少し異なり、同時につながりも感じさせ、「日本」のイメージの修正を迫る。
沖縄が日本に復帰して、きょうで50年を迎える。
島の置かれた状況を見ると、司馬氏と同じ言葉を、違う意味で繰り返さなければならない。
いったい、日本とは何なのか――と。
■日米両国のはざまで
復帰の日を、日本は4月1日にしたいと望み、米国は7月1日を主張した。間をとった「5月15日」になったことは、両国に翻弄(ほんろう)され続けてきた沖縄の歴史そのものに見える。
戦争中は本土決戦までの「捨て石」とされ、戦後は米軍の統治下に置かれた。日本は憲法9条を掲げる一方で、国土の防衛を米国に頼ることを決め、直前まで「統治権の総攬(そうらん)者」だった昭和天皇は「琉球諸島の軍事占領の継続を望む」とのメッセージを米側に伝えた。
米軍は県内に多くの基地を建設し、あわせて、住民の反対運動などで本土を追われた部隊を次々と沖縄に移転させた。
自らの意思と関係なく、他人に物事を決められてしまう境遇から脱したい。基地を「本土並み」に減らしたい。それが復帰を迎える沖縄の願いだった。
現実は違った。
負担はいっそう重くなった。国土面積の0・6%の島に米軍専用施設の7割が集まる異様な姿は、復帰後に「完成」した。
「銃剣とブルドーザー」で住民の土地を奪い、軍政の最高責任者が「沖縄の自治は神話である」と言い放つ。そんな異民族統治は確かに終わった。だが、日本国民が選挙によって国政を託した政府の行いも、本質において変わるところがなかった。そう言わざるを得ない。
機動隊や警備船を繰り出し、県民が何度「ノー」の意思を示しても聞く耳を持たず、情報を隠し、脱法的な手法も駆使して異議申し立てを抑え込む。辺野古の海の埋め立てをめぐって、国が現にやっていることだ。
沖縄はずっと基地負担の軽減を訴えてきた。2010年ごろからは「本土による差別」という指摘が加わった。
「甘えているのは沖縄ですか。それとも本土ですか」
翁長雄志(おながたけし)前知事が生前に放った、矢のような言葉である。
■「ひめゆり」の懸念
これに対し、本土は「慣れ」というよろいを厚くして、そこに逃げ込もうとしているように映る。難題から目をそらし、沖縄の犠牲の上で平和を享受してきた戦後の歩みを忘れたかのように、「安全保障のためだから仕方ない」「いつまで不満を言っているのか」と突き放す。最近は声をあげる沖縄を中傷・攻撃する言説も飛び交う。
気になる数字がある。
沖縄の米軍基地を今後どうするのがよいかを聞いた朝日新聞の全国世論調査の結果だ。10年前は「いまのままでよい」が21%、「縮小」「全面的に撤去」が計72%だった。調査方法などが異なるため単純に比較できないが、今年は現状維持が41%とほぼ倍増し、縮小・撤去の計52%に迫る結果となった。
沖縄戦でひめゆり学徒を率いた仲宗根政善(せいぜん)氏は復帰を前に、日記にこう書いた。
「十年後に本土並みの基地になるのか二十年後になるのか、全く予測はつかない。悪くすると、半永久的にならないとも限らない」
予言が現実味を帯びる。それが復帰50年の到達点とすれば、いったい、日本とは何なのか。
■首相の言、果たす責任
「日本の政府はあらゆる方法をもって琉球を利用するが、琉球の人々のために犠牲をはらうことを好まない」。米国の歴史学者G・H・カー氏の1953年の著作の中の言葉だ。一面の真実を言いあてたものと、沖縄では受け止められてきた。
違うと言うのであれば、行動で示さなければならない。
近年の中国の軍事力の伸長を受けて、米国は大規模な基地に依存するのは危険と考え、部隊を分散配置し、機動的に展開していく戦略への転換を進めている。県の有識者会議は昨年、この機をとらえて、沖縄の米軍を県外に移転させることは可能とする報告書をまとめた。
50年前の復帰記念式典で、佐藤栄作首相は「今日以降、わたくしたちは同胞相(あい)寄って、喜びと悲しみをともにわかちあうことができる」と述べた。
この言葉をウソにしてはならない。責任は本土の側にある>(以上「朝日新聞」より引用)
沖縄本土復帰50年を迎えた。世界史上で軍事占領された地が一発の銃声もなく返還された例は極めて稀だ。現に北方四島は戦争終結直後にソ連によって不法占拠されたが、戦後80年近く経っても、未だに返還されることもなく不法占拠されているままだ。
米国は沖縄を占拠するのではなく、日本に返還した。もちろん返還と云えば施政権と軍事統帥権を含めたものだ。だが米国は日本における米軍と軍属の地位を日本の法律よりも優先させてきた。それが沖縄における「本土並み」でないとする「被害者意識」の醸成に繋がっている。
引用した記事は朝日新聞の社説だ。日本では反日・マスメディアとして有名な新聞社だ。そして冒頭に引用した「沖縄所感」は司馬遼太郎氏の「街道を行く」の一文で、司馬歴史観と呼ばれるものだ。社説氏は司馬遼太郎氏の沖縄所感に反日・史観を増幅させて「当時の沖縄には、いま以上に、特有の文化や風景が残っていたに違いない。それらは本土とは少し異なり、同時につながりも感じさせ、「日本」のイメージの修正を迫る」と書き述べている。
日本は東西に長い島国だ。地域変われば言葉も異なる、といわれるほど豊富な方言の国だ。しかし全く通じないというほどでもない。早口で喋られたら意思疎通は困難だが、言葉のニュアンスは何となく理解できる。しかし沖縄のみならず、単語やモノの呼び名が異なる物もある。それを以て沖縄は日本本土に「侵略された地」であると結論付ける反日・日本人もいる。
同一国民で言語が異なる、というのは世界諸国では珍しくない。隣国・中国がそうだ。韓国と北朝鮮とでは日本の標準語と沖縄言語以上に意思疎通が困難だ。もちろん所変われば品変わる、で風俗習慣が異なるのも驚くほどのことではない。
沖縄を取り立てて「特別な地域」と特別視するのが反日・日本人の共通点だ。沖縄は特殊な地域だから本土は沖縄に気を使って、特別措置をもっと拡大・適用すべきだ、と主張するのは在日朝鮮人が主張してきた口吻と通じるものがある。本当に本土並みを願うのであれば、本土による特別措置をすべて廃し、本土と同一適用を望むべきではないか。
沖縄は先の対戦で唯一地上戦が戦われた地だ。しかし戦争形態を論うなら、広島や長崎は人類史上初の原子爆弾が投下された地だ。これほど悪逆非道な戦争犯罪が遂行された地が地球上に存在するだろうか。
そして東京をはじめ、日本の主要都市や地方都市に到るまで、米軍機の空襲に攻撃されている。それも市民虐殺を目的とした焼夷弾の雨を降らし、逃げ惑う市民や子供に機銃掃射を行った。米軍が日本国民に向かって行った大虐殺は断罪されて然るべきだったが、原爆投下を決断したトルーマン大統領をはじめ、戦争関係者は一切罪に問われることはなかった。戦争という悪逆非道な不条理を経験したのは沖縄だけではない。
しかし日本国民は戦争という不条理を乗り越えて、戦後世界の一員として世界平和と繁栄に資してきた。それが戦後80年近い日本の歴史だ。小異を論うのではなく、大同に就いて世界平和を願うのが日本の基本的な政治指針としてきた。
しかし、それが間違いだった、というのなら、今からでも遅くない。ドイツ・ナチスが裁かれ、日本の軍部や政治指導者が「戦争犯罪人」として処断された「罪悪」に照らして、連合国の軍人や政治指導者たちの悪逆非道な戦争犯罪も裁かれなければならない。「勝利者が正義」という馬鹿げた戦後史を現代の冷静な目で再検証すべきだ。
だが、それを実行したところで何になるだろうか。私たちは私を含めて先の戦争を経験していない。父親の世代が従軍し悲惨な最期を遂げた。父親の世代の魂を安んずる行為が先の大戦の戦争犯罪の再検証だ、というのなら、永遠に再検証すべきだろう。
しかし沖縄の「特異性」を論うことにより、日本と沖縄の分断を図ろうとする反日・日本人がいることも忘れてはならない。その最たる「特異性」が沖縄に基地負担が重くのしかかる、というものだ。確かに沖縄に数多の米軍基地が置かれているが、日本本土でも基地のある町では沖縄の特異性と全く違わない。「単位面積」を問題にするのなら、本土の基地が存在する地域の面積を狭めて論じれば沖縄の特異性と全く違わない。
米軍基地は何のためにあるのか。日米安保条約に基づき、日本は米軍に基地を提供している。それが嫌なら日米安保条約を破棄して、日本単独で日本を防衛する道を選択すれば良い。しかし、それで日本国内から米軍基地は撤去されるが、すべての基地が不用になることはない。なぜなら日本は明確に軍隊を配備して、日本を狙う他国から日本の国家と国民を守る必要があるからだ。
ウクライナを見るまでもない。他国を侵略しようと目論むバカな侵略国家は隣国にも存在する。もちろんロシアも隣国の一つだ。彼らは不法占拠した北方領土にロシア軍3,000人を駐留させ、ミサイルや戦車などを配備している。中国も尖閣諸島を「中国の領土だ」と荒唐無稽な主張を展開して軍艦モドキの艦船まで尖閣諸島海域に常駐させている。彼らはいつでも日本を蚕食しようと付け狙っている。朝日新聞の社説氏のような沖縄の「特異性」を論って、沖縄の被害者意識を増幅させて日本本土と沖縄の分断を図っている暇などない。そうした他国が付け入る隙を与えることが社説氏の目的だとしたら、それなりに有効な手法かもしれないが、日本の未来のためには良くない。むしろ日本国民の一体性を涵養する方がどんなに良いだろうか。沖縄復帰50年により、日本は北海道から沖縄まで統一された施政権下に一体化した。その意味の方が「特異性」を論うより遥かに大きい。