歴史散歩「下関・考」

 下関には一年に何度か訪れるが、維新の地を巡ったことはなかった。これまで拙い歴史小説を書くために史料を丹念に調べたが、現地を訪れることはなかった。
 なぜか、というと現代の建築物などに囲まれた「旧所」「名所」を訪れて得心したことがなかったからだ。たとえば私の家から車で20分足らずの地に伊藤博文の生家がある。藁葺屋根の農家然とした家屋だ。

 しかし何のためか、生家とおぼしき敷地のは入り口に「屋根付き門」がある。江戸時代の農家は門柱を建てることすら禁じられていた。伊藤博文の生家の復元をしたというが、鏑木門どころか屋根付き門など論外だ。
 しかも庭には築山まである。農家の家は農地の足しにするため、庭もすべて菜園として利用していた。現に「旧・伊藤家」とする萩の家の古い写真を見ると、前庭はすべて菜園として耕されている。

 ことほど左様に、僅か150年前の明治維新前後の時代考証すら行政は疎かにしている。だから下関を訪れても春帆楼や阿弥陀寺や功山寺や東行庵を訪れようとは思わなかった。しかし年老いたせいか、私の愚作に登場した彼らのゆかりの地を訪れることにして、三月下旬の桜の三分咲きの春霞の一日、順に巡って墓前で手を合わせた。
 「高杉さま、あなたのことを随分と批判的に書きました、お許しください」とか「白石さんも私の愚作に何度か登場して頂きました。あなたを褒めていますから筆力のなさは御勘弁ください」などと、心の中で詫びて回りました。

 歴史に「もしも」はないが、高杉晋作は出番が終わった役者のように、丁度良い頃合いで亡くなったのかも知れない、と思っている。彼が維新後も生きていれば西郷隆盛と同様の最期を遂げていたのではないだろうか。
 もとより高杉は維新政府に出仕できる男ではない。官僚勤めなど伊藤や井上や山県などに任せて、天下を吼えながら放浪していたのではないだろうか。彼はテクノクラートではない。彼は一流の思想家だ。だから大乱が去った世の中では身の置き所がない。

 明治10年の西郷隆盛よりも早く、明治二年に山口市郊外で蜂起した諸隊二千余の大将に担がれて、木戸孝允と井上馨が指揮する山口政府軍と決戦を挑んだのではないか。もちろん諸隊が総崩れとなって千人以上が捕らえられて斬首された。
 明治政府で必要とされた人材はテクノクラートだ。テクノクラートとして明治政府に最も必要とされた人材は伊藤博文だった。高杉晋作ではなかった。東行庵の墓前で手を合わせながら、そんなことを考えていた。

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