枝にストッキングをぶら下げてはならない。

<沖縄県北部、西表島(沖縄県)とともに世界自然遺産登録が決まった鹿児島県の奄美大島と徳之島で、道路沿いに立つ木々の枝につるされたストッキングが目立つようになり、島の生態系に影響を与えかねないとの心配が出ている。誰が、何のためにぶら下げたのか。

 7月11日、徳之島南部に位置する伊仙7月11日、徳之島南部に位置する伊仙町。地元で自然保護活動に取り組むNPO法人「徳之島虹の会」のメンバーらは、この日だけで木に約60足分のストッキングを見つけた。近づくと甘い香りがするものの他、腐敗して悪臭を放つものも。虹の会の美延睦美(みのべむつみ)事務局長(58)は「梅雨明け以降に増えてきた」と話す >(以上「毎日新聞」より引用)



 「月日は百代の過客(はくたいのかかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり…」(「奥の細道」より)という古典を高校時代に読んだ記憶がある。悠久な自然の中で、人の生涯は一瞬で過ぎ去る旅人のようなものだ、という意味だ。
 人の例に漏れず、「奥の細道」を著した松尾芭蕉もまた一瞬の光芒を放って歴史の彼方に消え去った。ただ「俳句」という優れた功績により死後300年を経ても彼の遺徳は多くの人によって偲ばれている。

 先人たちの業績と日本という素晴らしい自然に囲まれて、私たちは一瞬の人生を生きているに過ぎない。この先人から受け継いだ文化や自然環境は私たちだけのものではない。未来の日本国民も私たちが享受している文化や自然に囲まれて生きる権利を有している。
 私たちの代で文化遺産を壊し、受け継いできた文化を喪失し、そして自然を破壊してはならない。私たちは悠久の自然と、延々と続く歴史の中で「生かされ」ている。

 思い上がった自意識で歴史的文化や自然を破壊してはならない。たとえ文化的意義を見出していようが、それは環境破壊でしかない。引用記事によると「徳之島で、道路沿いに立つ木々の枝につるされたストッキングが目立つようにな」ったという。
 現代は極めて寛容な時代だ。人々の「表現」に対して、一定のルールを課していた枠のすべてを無視しても「許す」という寛大さでは有史以来というべきだろう。しかし、それも度を過ぎてはいけない。私はバンクシー氏やヘリング氏たちといった壁アーティストたちを評価しない。絵画はキャンバスといった「枠」の中で表現される芸術であって、「枠」を超えた絵画表現はルール違反でしかないと考えるからだ。

 反論が多いかもしれないが、私は「和太鼓」を打楽器として大勢で演奏する集団演技を「伝統芸術」とは思わない。それは日本の伝統的な「和太鼓」を用いた現代の演奏手法でしかない。
 伝統と現代との融合と称する安易な歌舞伎の物真似もいただけない、と思っている。文化遺産や伝統的家屋遺産に照明を当てて「芸術」だとするのも、余りに安易だと考える。いわゆるライトアップは現代的な建造物だけに限定して欲しいと思う。合掌造りの集落の素晴らしさは月明かりの谷間に佇む荘厳さではないだろうか。光を当てて「素晴らしい」と思うのはライトアップされたレインボーブリッジを見て「素晴らしい」と考えるのと同じだ。それは歴史的でも文化的でもない。むしろ人として先人や歴史に思いを馳せ内照する時を奪っているのではないだろうか。

 「地元で自然保護活動に取り組むNPO法人「徳之島虹の会」のメンバーらは、この日だけで木に約60足分のストッキングを見つけた」という。環境芸術家を気取っているのかも知れないが、こんなバカなことは即刻やめるべきだ。
 芸術だと思うなら、そうした表現することを許され限られた空間の中で行い、鑑賞者の評価を待つべきだ。断じて「芸術活動」が他人に不快な思いを抱かせたり、他人に迷惑を掛けたりすることがあってはならない。それは甚だしい勘違いであり、思い上がった独りよがりの愚行でしかない。

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