みんな違って みんなよい。
<菅義偉首相が日本学術会議の新会員6人を任命しなかった問題は、学者らに広がる批判のうねりと、冷めた世論との落差が目につく。学術会議連携会員で日本教育学会長を務める広田照幸・日本大学教授は、この問題で人文・社会科学のおよそ100学会のとりまとめ役を担う。「学者たちの既得権益」などと論点をずらす政府に対して、社会全体の自由にかかわる問題だと訴える。
――10月半ばの朝日新聞世論調査では菅政権に任命拒否の理由を説明するよう求める声が大きい一方で、任命拒否は「妥当ではない」36%、「妥当だ」31%と伯仲していました。
任命拒否の理由を説明せずに学術会議の組織改革の必要性などに言及する政府の対応は、まるで「居直り強盗」。論点をずらし、問題の本質が見えにくくなっています。「誰が、なぜ、どういう過程で6人を外したのか」という経緯がいまだに明らかにされず、誰もが納得できる説明が難しいような理由だったことを図らずも露呈しているように見えます。
――「学問の自由」は国民全員に不可欠の権利ではなく、一部の人の「特権」と受け止める人もいます。
これは学者の特権の問題ではなく、社会全体の自由に関わる問題なのです。社会を構成する一人ひとりの自由のためにこそ「学問の自由」を実現する必要があり、そのために大学の自治や学者が自ら運営する学術会議のようなアカデミーが必要です。
ときの政治に都合のいい説を唱える学者ばかりになってしまった社会では、流れる情報が政府に都合のいいものばかりになり、「言論・報道の自由」が空洞化します。「言論・報道の自由」の空洞化は、国民一人ひとりの「思想・信条の自由」を脅かします。
戦前の日本や今の香港のように、学問や言論の自由はもろくて簡単に失われかねないものです。現在のものの見方だけが必ずしも正しいわけではないのに、次の時代の正しさを生み出す「知の源泉」となる多様なものの見方ができなくなる。学問を含む社会全体が気がつくと、大きな曲がり角を曲がってしまったとなる前に、学者が国民みんなに支えてもらわないといけない状況です。
――学術会議がどうなろうと「学問の自由」は守れるという声もあります。
今回の政府の「解釈」は、あらゆる「任命」の話に拡大してしまいかねない。アカデミズムの世界で言えば、国立大学の学長や大学共同利用機関の機構長の人事などです。日本学術会議法が学術会議の推薦に基づいて首相が会員を任命すると定めているのと同じように、国立大学法人法は国立大学法人の申し出に基づいて文部科学大臣が学長を任命すると定めています。ことは学問の世界にとどまりません。例えば最高裁長官は内閣の指名に基づく天皇の任命ですし、最高裁判事は内閣の任命です。高裁長官や判事などは最高裁が提出する名簿により内閣が任命しています。今回の事件は、そうした諸制度を脅かすことになります。
既に問題は飛び火しており、萩生田光一文部科学相は10月13日の閣議後会見で、国立大学学長の任命について「基本的には(大学側の)申し出を尊重したい」とし、文科相の判断で任命しないこともありうるとの認識を示しています。元の解釈に戻さないと、国立大学などの人事に対して政府が恣意(しい)的な任命ができることになり、学者や大学関係者の間に忖度(そんたく)が蔓延(まんえん)するでしょう。学術会議だけでなく、約87万人の研究者が日々取り組む学術研究の独立性が崩壊し、ときの政権の意向に左右されるようになってしまいます。
――人文・社会科学は国や社会の役に立つのかという意見もあります。
学問の国や社会に対する役立ち方は、政治や行政とは違います。
ときの政治は、比較的短い時間軸の射程で政策を考えて採用しますが、学問の世界の時間軸は短いものから長いものまで様々です。研究成果が社会に影響を与える時間軸も、政治や行政とは異なります。役に立たないように見える基礎研究が実践的・実用的な分野の基盤になり、行政や産業の役に立っています。人文・社会科学が考えた理論や概念も、いつの間にか国民の日常的な思考の材料になっています。
例えば、教育学でいうと「発達」や「アイデンティティー」「学習者の権利」。他の分野でも「民主主義」や「市場の競争力」などたくさんあります。学者が目の前の現実や理想に意味と理論づけを与えたものが一般に普及し、社会の仕組みや人間の生き方を説明する日常用語になっていく。いわば学問が国民みんなのものになっていく過程があります。
――改めて、学術会議の役割とは何でしょうか。
政治や行政への貢献は、学問が果たすべき役割のごく一部に過ぎません。日本学術会議法前文には「わが国の平和的復興、人類社会の福祉」や「世界の学界と提携して学術の進歩に寄与する」という使命が記されています。
放っておくと狭い専門に閉じこもりがちな研究者のコミュニティーにとって、学術会議は大きな役割を果たしています。分野を超えて様々な問題を議論する唯一無二の場といっても過言ではない。各分野を牽引(けんいん)する学者が集まり、分野を超えた多角的な視点で学問上の問題や社会課題を話し合うことは、各分野の研究のあり方にも大きな影響を与えています。遺伝子工学や人工知能(AI)などの科学技術と社会の関係など、学術会議の貢献を必要とする課題も増えています。
首相のブレーンを務める特定の学者や、個別の政策のためにつくられる内閣や各省庁の審議会や有識者会議と、様々な学問領域をほぼ網羅している日本学術会議とでは、目的や使命が違い、位置づけもまったく違います。学術会議は、政権に批判的な人を含めて議論をすることができるからこそ意味があるのです>(以上「朝日新聞」より引用)
上記引用記事で広田氏は日本学術会議の「独立性」がなぜ必要かを的確に述べている。ガリレオの例を持ち出すまでもなく、司法を含めた時の権力者は必ずしも正しくない。時には間違っていることがある、という実例が歴史上には多数ある。
菅氏はその前の安倍自公政権から引き続き政権の中枢にいるが、彼が関与して来た八年に亘る政権運営がいささかも間違っていないとでも思っているのだろうか。法曹関係者の多くが批判した「大金財務局の公用地払い下げ」やそれに関連した公文書改竄で多くの法律学者が批判したが、彼は「蛙の面にションベン」で官邸会見を乗り切った。
「解釈改憲」でも憲法学者の9割以上が「憲法違反」と批判したが、ごく少数の御用学者を重用して反論した。菅氏にとって学者たちの存在は「目の上の瘤」なのだろう。日本学術会議も「政府機関」だから「政府に従う」べきであって、「政府に従わ」ないなら「年間10億円の予算」を「止める」ぞ、と自民党を動員して脅している。
これほど愚かな政治家がいただろうか。自分を何様と勘違いしているのだろうか。単に選挙で当選を繰り返し、国民の負託を得て政治権力を手にしているに過ぎない。それも極めて短期間のことでしかない。多くの先人が営々として築き上げてきた日本の仕組みを壊し、誰かの餌食にしようと画策している「構造改革」政治家たちには、歴史や学術に精通している「学者」たちは目障りなのだろう。その動機は秦の始皇帝の「焚書坑儒」と酷似している。
民主主義は金子みすゞの「みんな違ってみんなよい」という世界だ。自分と意見を異にする者を迫害したり、抹殺しようとしてはならない。現在の報奨制度は市町村長や知事の「フクシン」を必要とする。つまり添え書きがなければ「勲何等」という位階は頂戴出来ない仕組みだ。だから政権や各市町村長に対立した政敵の多くは叙勲されない。国民の多くは知らないだろうが、日本はそうした仕組みになっている。
その仕組みを日本学術会議や、学問の自治が必要とされている大学にまで広げて、日本学術会議委員の任命や国立大学学長人事にまでヘナチョコ政治家が口を挟むようになった。そして「人事は個人に関することだから答弁は控える」と意味不明な発言を繰り返している。
日本全国に蔓延する「閉塞感」は彼ら政治家に責任がある。それは「構造改革」というグローバル化により日本のモノ造りがスカスカになったことと深い関係があるし、菅氏などの思慮分別のない政治家が跋扈することにより、彼らの気紛れを忖度する官僚や学者や評論家たちがすべて「御用」化したことに大きな原因がある。
貧困化が閉塞感をもたらすのではない。単一化が閉塞感をもたらすのだ。すべての人が単一化されては「かなわない」と思うのが閉塞感を抱く最大の原因だ。「規制緩和」により労働者は非正規化されコマギレ労働力化され、勤労者は人ではなく「工数」として単一化されている。人を人と見ない労働行政が閉塞感をもたらしている。菅氏とその仲間たちに「みんな違ってみんなよい」という金子みすゞの世界は理解できないだろう。