安倍氏は総理大臣であって、大物タレントではない。
<健康不安が取り沙汰される安倍晋三首相が28日に記者会見し、自身の体調について説明する方向となり、与党内で26日、波紋が広がった。
役員は9月末に、衆院議員も来年10月に任期切れを控え、人事権や衆院解散の権限を握る首相の健康状態は、政局の行方を大きく左右しかねないためだ。首相は何をどう説明しようとしているのか。与党幹部らは固唾をのんで見守っている。
自民党幹部は数日前、官邸に常駐する首相の側近に電話し、体調について探りを入れた。直接官邸に出向けば「大騒ぎになる」と思い、電話にしたという。この幹部は首相側近の話の内容は明かさず、「退陣しないといけないほど悪いわけではない」との見方を示す一方、「気力があれば続けられる。通院しながら公務をやればいい」とも語り、極めて微妙な状況をうかがわせた。
首相は第1次政権時の2007年9月、持病の潰瘍性大腸炎を悪化させて退陣した経緯があり、政権復帰後も健康不安説は影のようにつきまとってきた。春先からの新型コロナウイルス対策で忙殺された上、政府対応が批判を招いて内閣支持率が急落。通常国会閉幕後の7月ごろには「顔色が悪い」「疲れているようだ」などの声が周辺から漏れていた。今月17日に慶応大病院で検査を受けたことで、健康不安説が一気に広がった。
ただ、首相が24日に改めて同病院で受診した後、テレビカメラの前で「体調管理に万全を期し、これからまた仕事に頑張りたい」と発言したのを見て、回復傾向を感じ取った自民党幹部もいる。この幹部は「お盆の頃が一番大変だったみたいだ。だんだん良くなっている」と胸をなで下ろし、秋に臨時国会を召集しても首相は対応可能ではないかと期待を示した。
だが、政権トップの健康問題はそもそも「秘中の秘」だけに、首相と直接面会した党幹部らも含め、疑心暗鬼を募らせる一方だ。仮に首相が会見で検査結果などを詳しく説明し、健康不安を否定しても、周囲の疑念を払拭(ふっしょく)できるとは限らない。 実際、20日に首相と会った自民党の岸田文雄政調会長は25日の講演で、「首相の体の中は外から分からないし、心の内もうかがい知ることはできない」と明かした。公明党幹部も「本人と主治医しか本当のところは分からない」と指摘した>(以上「時事通信」より引用)
総理大臣職は一国を預かる重責だ。その重責を担うには体力・気力とも充実していなければならない。なぜなら気力が喪失していれば国家運営の判断を誤りかねないからだ。
日本と世界は困難に直面している。それは戦後体制を変えるかも知れない大きな局面だ。国内にあっては武漢肺炎の蔓延であり、国外にあっては中国のデカップリングだ。
28日に健康に関して発表する、とは思わせぶりなことをやるものだ。武漢肺炎の感染拡大と戦っている国民にとっては迷惑千万だ。なぜ「検査と隔離」を拡大実施して、感染拡大を積極的に阻止しようとしないのだろうか。
国内の移動が緩和され、「GO TO キャンペーン」により県境を越える移動も自粛から推進へと軸足が移ったためか、地方での感染患者の発生が多くなっている。貧弱な地方の医療体制では多くの県で崩壊寸前だ。もちろん医療スタッフは疲弊しきっている。
安倍氏の健康問題は個人的な問題ではない。総理大臣である限り、国家としての問題だ。彼にそうした自覚は皆無のようだ。28日に発表するなどといった思わせぶりな態度を取るのは安倍氏がいかにジコチューか面目躍如というところだ。本来なら一週間前の健康診断結果を公表して一件落着ではないか。
絶えず目先を変えてアホノミクスから国民の視線を逸らし、「イザナギ超え」などという大嘘を堂々と吐いて国民を騙してきた。彼の治世の八年間に国民はどれほど貧困化したことだろうか。国土は強靭化どころか、旧・民主党政権以上に公共事業は削減されている。そうした実態を殆ど報道して来なかったマスメディアも。また腐り切った安倍自公政権と同罪だ。
安倍氏はお笑い芸人でもなければタレントでもない。政治家である限り、出処進退は明らかでなければならない。武漢肺炎という感染症に対処するのは感染症の専門医でなければならない。政治家が「GO TO キャンペーン」に東京を加えるのかを近日中に判断する、とは狂っている。
「経済を回す」よりも国民の健康と命の方が優先される、というのは当たり前ではないか。経済が回らないのなら、回らない人たちの暮らしを政府が守るのが、政府がすべき感染症対策ではないか。そうしたイロハのイすら解らない政治家が政治を行っているのが安倍自公政権の実態だ。そして、そうした問題点すら追求しようとしないのが日本のジャーナリストの知的判断能力の実態だ。
「国民の健康と命を守る」という命題と、「中共政府の中国をデカップリングする」という命題の内外の二大政治課題と直面している日本政府に総理大臣の健康問題に時間を割く余裕などないはずだ。28日に発表する、と発言した安倍氏を即座に叱り飛ばす重鎮は自公政権内に誰もいないのか。
役員は9月末に、衆院議員も来年10月に任期切れを控え、人事権や衆院解散の権限を握る首相の健康状態は、政局の行方を大きく左右しかねないためだ。首相は何をどう説明しようとしているのか。与党幹部らは固唾をのんで見守っている。
自民党幹部は数日前、官邸に常駐する首相の側近に電話し、体調について探りを入れた。直接官邸に出向けば「大騒ぎになる」と思い、電話にしたという。この幹部は首相側近の話の内容は明かさず、「退陣しないといけないほど悪いわけではない」との見方を示す一方、「気力があれば続けられる。通院しながら公務をやればいい」とも語り、極めて微妙な状況をうかがわせた。
首相は第1次政権時の2007年9月、持病の潰瘍性大腸炎を悪化させて退陣した経緯があり、政権復帰後も健康不安説は影のようにつきまとってきた。春先からの新型コロナウイルス対策で忙殺された上、政府対応が批判を招いて内閣支持率が急落。通常国会閉幕後の7月ごろには「顔色が悪い」「疲れているようだ」などの声が周辺から漏れていた。今月17日に慶応大病院で検査を受けたことで、健康不安説が一気に広がった。
ただ、首相が24日に改めて同病院で受診した後、テレビカメラの前で「体調管理に万全を期し、これからまた仕事に頑張りたい」と発言したのを見て、回復傾向を感じ取った自民党幹部もいる。この幹部は「お盆の頃が一番大変だったみたいだ。だんだん良くなっている」と胸をなで下ろし、秋に臨時国会を召集しても首相は対応可能ではないかと期待を示した。
だが、政権トップの健康問題はそもそも「秘中の秘」だけに、首相と直接面会した党幹部らも含め、疑心暗鬼を募らせる一方だ。仮に首相が会見で検査結果などを詳しく説明し、健康不安を否定しても、周囲の疑念を払拭(ふっしょく)できるとは限らない。 実際、20日に首相と会った自民党の岸田文雄政調会長は25日の講演で、「首相の体の中は外から分からないし、心の内もうかがい知ることはできない」と明かした。公明党幹部も「本人と主治医しか本当のところは分からない」と指摘した>(以上「時事通信」より引用)
総理大臣職は一国を預かる重責だ。その重責を担うには体力・気力とも充実していなければならない。なぜなら気力が喪失していれば国家運営の判断を誤りかねないからだ。
日本と世界は困難に直面している。それは戦後体制を変えるかも知れない大きな局面だ。国内にあっては武漢肺炎の蔓延であり、国外にあっては中国のデカップリングだ。
28日に健康に関して発表する、とは思わせぶりなことをやるものだ。武漢肺炎の感染拡大と戦っている国民にとっては迷惑千万だ。なぜ「検査と隔離」を拡大実施して、感染拡大を積極的に阻止しようとしないのだろうか。
国内の移動が緩和され、「GO TO キャンペーン」により県境を越える移動も自粛から推進へと軸足が移ったためか、地方での感染患者の発生が多くなっている。貧弱な地方の医療体制では多くの県で崩壊寸前だ。もちろん医療スタッフは疲弊しきっている。
安倍氏の健康問題は個人的な問題ではない。総理大臣である限り、国家としての問題だ。彼にそうした自覚は皆無のようだ。28日に発表するなどといった思わせぶりな態度を取るのは安倍氏がいかにジコチューか面目躍如というところだ。本来なら一週間前の健康診断結果を公表して一件落着ではないか。
絶えず目先を変えてアホノミクスから国民の視線を逸らし、「イザナギ超え」などという大嘘を堂々と吐いて国民を騙してきた。彼の治世の八年間に国民はどれほど貧困化したことだろうか。国土は強靭化どころか、旧・民主党政権以上に公共事業は削減されている。そうした実態を殆ど報道して来なかったマスメディアも。また腐り切った安倍自公政権と同罪だ。
安倍氏はお笑い芸人でもなければタレントでもない。政治家である限り、出処進退は明らかでなければならない。武漢肺炎という感染症に対処するのは感染症の専門医でなければならない。政治家が「GO TO キャンペーン」に東京を加えるのかを近日中に判断する、とは狂っている。
「経済を回す」よりも国民の健康と命の方が優先される、というのは当たり前ではないか。経済が回らないのなら、回らない人たちの暮らしを政府が守るのが、政府がすべき感染症対策ではないか。そうしたイロハのイすら解らない政治家が政治を行っているのが安倍自公政権の実態だ。そして、そうした問題点すら追求しようとしないのが日本のジャーナリストの知的判断能力の実態だ。
「国民の健康と命を守る」という命題と、「中共政府の中国をデカップリングする」という命題の内外の二大政治課題と直面している日本政府に総理大臣の健康問題に時間を割く余裕などないはずだ。28日に発表する、と発言した安倍氏を即座に叱り飛ばす重鎮は自公政権内に誰もいないのか。