天皇の国事行為を批判するとは何事だ。

22日に天皇代替わりに伴う「即位礼正殿の儀」が行われるのを前に、日本キリスト教協議会(NCC)靖国神社問題委員会は21日、東京・西早稲田の日本キリスト教会館で、公費を投じて行われる天皇代替わりの諸儀式に抗議する記者会見を開催した。会見には、カトリック教会の岡田武夫名誉大司教(前東京大司教)、NCCの金性済(キム・ソンジェ)総幹事、日本福音同盟(JEA)の上中栄社会委員長(日本ホーリネス教団旗の台キリスト教会牧師)が出席。それぞれの教会や団体ですでに発表している声明などを読み上げ、宗教色のある諸儀式が国事行為などの公的行事として行われることは、政教分離の原則に反する憲法違反だと訴えた。
カトリック教会は昨年2月、日本の全司教で構成される日本カトリック司教協議会が、「天皇の退位と即位に際しての政教分離に関する要望書」を発表。NCCは今月9日に「天皇代替わりに関する日本キリスト教協議会(NCC)2019年宣言」を、JEAは今年8月に、社会委員会が「天皇代替わりに際しての日本福音同盟(JEA)社会委員会声明」を発表している。いずれも、天皇代替わりに伴う諸儀式、特に来月行われる「大嘗祭(だいじょうさい)」は宗教的要素が色濃く、これに公費を用いることは政教分離の原則に明確に反すると訴えている。またいずれも、日本がかつて天皇を中心とした国家神道の下で戦争を推し進めた歴史にも触れ、そうした歴史への反省もつづっている。
岡田氏は会見で、「一般の神道を排斥することはないが、国家神道の伝統を引く大嘗祭を国家が行うことは、(信教の自由と政教分離の原則を定めた)憲法20条に違反する」と指摘。金氏は「明治憲法でも信教の自由を認めていたが、それは国家の安寧秩序を妨げない範囲でという条件付きだった。この条件により、戦時下の信教の自由は換骨奪胎され、(プロテスタント教会では)国家神道が『国民儀礼』という形で強制されていった」と主張。皇室行事の公的化は国家神道の復活の兆しだとし、危機感をあらわにした。上中氏は、キリスト教界も一枚岩ではなく、さまざまな立場の人がいると述べる一方、「天皇が好きか嫌いかとか、政治的な立場の問題ではなく、天皇代替わりに関する宗教的行事に政府が関与していることを問題視している」と述べ、何を問題として訴えているのかを説明した。
3人はそれぞれの立場を表明した後、記者団からの質問に応じた。
「『神道は習俗だから政教分離の例外』『米国の大統領も就任時には聖書に手を置いて宣誓する』といった批判の声もある。キリスト教徒以外の日本人にとって、政教分離を守る重要性とは何か」
この質問に金氏はまず、天皇代替わりに関する諸儀式は習俗ではなく、立派な宗教行事であることを見抜く必要があると指摘。日本には、周囲の「空気」に合わせて動かねばならないという同調圧力の強い社会風土があり、公的化した宗教行事を拒めば社会的な制裁を受けかねないと危惧した。その上で、「政教分離の原則は、人が人として認められ、多様性を認め合って生きていくための非常に大切な原理」と、その重要性を語った。
上中氏は米国の大統領が就任時、聖書に手を置いて宣誓することについて、「聖書に手を置くこと自体が悪いのではなく、権力者が宗教的権威を行使することに対しての政教分離」と説明。「国が宗教に口出ししてはいけないが、キリスト教や仏教、神道などの宗教が政治に関わることは何ら悪いことではない。しかし、公権力がそれらの(宗教的な)力を使って国民に働き掛けようとするとき、それを阻止するのが政教分離の原則」と述べた。また「神道は習俗」という考えに対しては、「神道側よりもむしろ政府側がそのように主張してきたと思う。それなのに、それを日本の文化のように捉える方がおかしいと思う」と語った。
この他、記者会見を主催したNCC靖国神社問題委員会の星出卓也委員長(日本長老教会西武柳沢キリスト教会牧師)は、「信教の自由のみならず、思想・良心の自由は多数決になじまないもの」と指摘。多くが多数決で決められる社会にあって、こうした自由を守っていく必要性を示した。
一方、国が天皇代替わりの諸行事に関与することへの懸念は、昭和から平成に変わった30年前もあったが、こうした動きは以前に比べると温度差があるという。岡田氏は冒頭、「昭和から平成に移るときには、カトリック教会でも熱心に議論しました。今回は熱意があまり感じられないのが残念」とコメント。NCC靖国神社問題委も4月から署名活動を行っているが、10月中旬までに集まったのは約4千筆で、30年前に比べると多くはないという。
これについて金氏は、30年前と現在では経済的、社会的な状況が大きく異なるとし、「今は多くの人が非常に社会的に不安の中にある。社会的風潮と無関係ではないと考えている」とコメント。岡田氏もこの意見に同調し、「今は余裕がない。自分の生存や明日のことに不安を持っている人が多く、重大な問題に取り組むのが難しいのでは」と語った。また星出氏は、「戦後74年がたち、戦争を痛いほど経験した人たちが亡くなっている。過去の記憶の継承がうまくなされなかった日本の問題もあるのでは」と話した。
NCC靖国神社問題委は、大嘗祭を前にした来月11日には、午後6時半からお茶の水クリスチャン・センター(東京都千代田区)で、憲法学が専門の横田耕一・九州大学名誉教授を招き、「天皇代替わりにみる天皇教の残存」をテーマにした集会(参加費500円)を開催する。また、翌12日には集めた署名を内閣府に提出する計画だ>(以上「CHRISTAN TODAY」より引用)


 22日に天皇代替わりに伴う「即位礼正殿の儀」が行われるのを前に、日本キリスト教協議会(NCC)靖国神社問題委員会は21日、東京・西早稲田の日本キリスト教会館で、公費を投じて行われる天皇代替わりの諸儀式に抗議する記者会見を開催したそうだ。国事行為と宗教儀式とを勘違いしているようだ。「即位礼正殿の儀」は日本国憲法に定める象徴天皇が交替したことを内外に明らかにする「国事行為」だ。
 そこに宗教色がある、と批判するなら、宗教由来の行事全てに厳しく臨むことになりかねない。むしろ宗教色があるのも皇室の「伝統」だと理解すべきではないだろうか。荒唐無稽な「天照大神」の系譜に連なるという「三種の神器」を奉るなどという儀式も、伝統を重々しく演じるには必要ではないか。

 それは恰も、キリスト教でも「復活祭」や「キリスト誕生」などといった凡そ非科学的な荒唐無稽な「神話」を信徒たちと祝い、お互いに感謝する、という宗教儀式の一環として行っている「伝統」ではないか。
 そうした儀式化、様式化した行事にいかなる宗教的な意味合いを見出すというのだろうか。そして靖国神社問題などという「宗教の自由」に反する宗教の排斥活動をしている人たちがいること自体がキリストを信じる人たちの宗教観と相容れないのではないだろうか。

 戦前・戦中の歴史を指摘するなら、キリスト教にも植民地主義の先兵として有色人の地に宣教師が送り込まれた暗黒の歴史がある。そして魔女狩りや宗教裁判といった決して褒められたことではない、歴史を持つことも私たちは知っている。
 あまり他の宗教行事を論って批判しない方が良い。すべての宗教は開祖たちの信仰とは全く別物に変節しているといっても過言ではない。各宗教の開祖たちは他宗教を批判せよ、と教えたか。宗教指導者は暖衣飽食せよ、と教えたか。そして他宗教を信じる者たちを銃や爆弾で殺害せよと、教えたのか。

 そもそも宗教とは魂の救済だ。決して、現生利益を説くものではない。宗教指導者たちが他宗教を批判し国事に口を出すのは邪道だ。魂の救済にこそ、宗教は全力を尽くすべきだ。畏れ多くも天皇の国事行為を批判するとは何事だ。

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