憲法議論を進めるには前提が必要だ。

国民民主党の玉木雄一郎代表が改憲論議に前のめりな姿勢を見せ、党内外に波紋を広げている。「提案型」をうたう同党だが、参院選の1人区で野党共闘した直後だけに野党の連携に混乱をもたらしかねないとみて、玉木氏は26日、自ら火消しに走った。だが発言の余波は後を引きそうだ。
 「私、生まれ変わりました。我々も改憲議論は進めるし、安倍晋三首相にもぶつける」。玉木氏は25日夜に配信された文化人放送局のインターネット番組で改憲論議について、こう言及。「最終的には党首と党首として話をさせてもらいたい」と踏み込んだ。
 安倍首相は改憲論議を動かそうと、国民民主に盛んに秋波を送る。発言は首相との党首会談に応じる意向を示したものだと受け止められ、党内に動揺が走った。「そんな説明は受けていない」。複数の幹部が電話で真意を問いただすと、玉木氏は「そういう意図はない」と語ったという。
 26日になって、玉木氏は「徹底的な政策論争をするという意味で『生まれ変わる』という心構えを申し上げた。今までと考え方を変えて憲法論議に参加すると申し上げたつもりはない」と記者団に釈明。首相との改憲論議について「党首討論などがその一番の舞台」と述べ、一対一の党首会談ではなく、開かれた国会論戦で議論を進める考えを示しつつ、「言い方は気を付けたい」と語った>(以上「朝日新聞」より引用)


 実に軽率な発言だ。国民党の玉木氏が党首にあるまじき改憲議論容認発言には驚く。
 安倍自公政権の改憲には反対するしかない。なぜなら現憲法を「解釈改憲」して恥じない内閣に憲法を語る資格はないからだ。
 どうしても改憲議論をしたいのなら、安倍氏は閣議決定した「解釈改憲」を歴代自民党政権の線まで戻して、違憲立法した「戦争法」や「共謀罪」を撤廃すべきだ。そうした措置を講じた上で、立憲民主主義に立った憲法議論でなければならない。

 憲法とは権力者を縛るための最高規範だ。なにも崇高な(曖昧模糊とした)国家理念を書き連ねた形而上学的な文章ではない。具体的な国権に箍を嵌めるための道具だ。それが機能しない内閣に「箍」を自ら作る資格はない。
 憲法議論を前に進める、というのなら安倍氏は自ら「違憲立法」した責任を取って総退陣するか、上記に示した違憲立法の法律を廃棄する手続きを取ってからにすべきだ。憲法とは何かを安倍氏は真摯に考えるべきだ。決して政治家の玩具ではない。

 玉木氏は何を勘違いしているのか。党首であれば何をしても良いというものではない。党所属の全員に諮ったうえで行動すべきだ。軽々に「人気取り」の言動をすべきではない。
 まず国民党内で現憲法の何が問題で、何処をどうすべきかの議論が先になければならない。そして安倍氏に対しては上記ブログで示した通り、立憲主義に関する認識のない内閣の改憲議論は拝聴するに値しない、と突っ撥ねるべきだ。

 まず立憲主義の前提から議論すべきではないか。国会議席の過半数を取っていれば憲法など閣議の「解釈改憲」でどうとでもなる、という政権と憲法の何を話すというのか。
 立憲主義とは何か。憲法学者は何のために存在しているのか。彼らこそが憲法解釈の専門家ではないか。彼らの90%以上が「解釈改憲」は「違憲」だと批判した安倍自公政権に、改憲を議論する資格はない。立憲主義とはそういうものだ。

 しかし憲法の番人までが職務放棄して、政権の番犬に成り下がっているのが日本の現状だ。政権が勝手に作り出した「総括原価主義」などという原価計算を適用して「原発は廉価な電力を創り出す発電装置」だという大嘘を日本国民に信じ込ませた。そうした大嘘を政権のみならず司法までも後押しして、東日本を放射能塗れにした。
 それでも司法は東電の国土汚染の責任を一切問わないでいる。これが民間企業の環境汚染ならどれほどの責任を取らされるのか、日本は明確なダブルスタンダードの国に成り果てている。それも司法の自殺行為の果てだ。安倍自公政権の「解釈改憲」に際して談話の一つとして発表しない「憲法の番人」とは何なのか。憲法議論を進めたいというのなら、まずその辺りから議論すべきではないだろうか。

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