「いじめ自殺」の不幸に学ばない教師たち。

兵庫県多可町で小学5年の女児が自殺した問題について再調査委員会が15日に発表した報告書。町教育委員会設置の第三者委がまとめた報告書と認定事実は大きく異ならないとしながら、女児は4年時からグループ内で「仲間外れ」と「囲い込み」が同時並行する複雑ないじめを受け、「相当危険な状態にあった」との見方を新たに示した。学校側はこの状況を正しく認識できず、進級時のクラス替えで、グループと離れることができなかった女児は「確固たる決意をもって自死を決行した」とした。(長嶺麻子)
 会見した再調査委の吉田竜一委員長は「いじめは一見、仲が良いグループで起きる」と、異変に気付きながら「見守り」にとどまった学校側の対応の甘さを指摘。報告書では、女児はグループ内で不本意に胸の見せ合いに参加させられたり、脚を強く蹴られたりした上でグループ外の児童から引き離され無力化、孤立化していく過程を認定した。
 クラス替えを経て、いじめの対象は女児一人となり、以前のように外で遊ばず教室で一人、読書をするようになった。これを「いじめが見えない透明化の段階に入った」と分析。女児が自殺した日については、約3週間後に4泊5日の自然学校を控え、「孤立状態の継続が予想できることが影響した」と推察した。
 吉田委員長は「子どもの認識は薄いだろうが、仲間外れや囲い込みは明らかないじめ。学校側も十分認識すべきで、傍観者も加害者であることを周知させてもらいたい」と訴えた。
 同町の吉田一四町長は「答申を重く、真摯(しんし)に受け止め心からおわびする」。岸原章教育長は「学校が見抜けなかったことを重く受け止める」とし、前回報告書について「遺族の思いに沿っていない部分があった」と話した>(以上「神戸新聞」より引用)


 児童や生徒が「いじめ」を苦にして自殺する、という残念な事態が相次いでいる。なぜ「学校」で起きている事態に教師たちが気付かないのだろうか。
 いじめがあれば何らかのサインをいじめられている児童や生徒は発するはずだ。人は基本的に「生きたい」と願っているし、他人とも「仲良くしたい」と思っている。

 児童や生徒にとって学校は社会に出る準備を行う場でもある。それまで家庭だけだった世界から、学校という集団の場で学問だけでなく模擬「社会」の訓練を受けて「社会性」を獲得していく。
 その訓練を受ける場で「いじめ」があれば正常な社会性を身につけることはおろか、自殺に到ることは多くの「不幸な事例」から教師たちは承知しているはずだ。そうした「不幸な事例」から教師たちは学ばないのだろうか。

 日本の教師たちは夏休みでも「家庭研修」として給与をもらっている。それが本当の意味で「家庭研修」になっているのか。なぜ教育委員会は夏休みなどに教師たちに「いじめ」に対する対策と対処の仕方を施さないのだろうか。
 また教師たちは教育の専門職として「いじめ自殺」は教育の敗北だという捉え方をしないのだろうか。死を選ぶくらいなら、子供に登校して欲しくない、というのが親の本音ではないだろうか。つまり、それは教育の敗北だ。

 いじめによる自殺は個々の極めて個人的な問題ではない。それは学校という場で起きる社会性を身につける教育段階の不具合だ。もちろんいじめる子供に重大な問題があるが、それを見抜けず対策を取らなかった教師たちの問題でもある。
 そうした教師として任務を果たせない教師が学校現場に満ち満ちているとしたら大問題ではないだろうか。いうまでもなく、教師は「人材確保法」により一般的な地方公務員よりも優遇されている。人材は確保されているはずだが、児童・生徒の「いじめ自殺」は後を絶たない。

 教師は教員になっても教師としての資質を高めるために努力しているはずだ。そうしなければならないが、平の教員から教務主任や教頭などへ昇進するに従って、教員としてのスキルは果たして向上しているのだろうか。教員を教育する教員が必要になっているのではないだろうか。

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