百代の過客と「恥の観念」
<広島県の「帝釈峡」にある国の天然記念物「雄橋」で落書きが見つかりました。鋭利な道具で彫ったものとみられています。
雄橋は全長が90メートルある石灰岩の一枚岩で、国の天然記念物です。落書きは18日、観光協会の職員が根元部分に彫られているのを確認しました。「平川」や「平本」といった人の名前とみられる文字が読み取れます。鋭利な道具が使われたものとみられ、元に戻すことは難しいということです。
庄原市帝釈自治振興区・表良則会長:「心が痛みますし、あってはならないことでありますし、本当に遺憾な強い気持ちでございます」
管理する庄原市教育委員会は貼り紙で落書き禁止を呼び掛けるほか、今後の対応について国や県と協議することにしています>(以上「Livedoor NSWS」より引用)
雄橋は全長が90メートルある石灰岩の一枚岩で、国の天然記念物です。落書きは18日、観光協会の職員が根元部分に彫られているのを確認しました。「平川」や「平本」といった人の名前とみられる文字が読み取れます。鋭利な道具が使われたものとみられ、元に戻すことは難しいということです。
庄原市帝釈自治振興区・表良則会長:「心が痛みますし、あってはならないことでありますし、本当に遺憾な強い気持ちでございます」
管理する庄原市教育委員会は貼り紙で落書き禁止を呼び掛けるほか、今後の対応について国や県と協議することにしています>(以上「Livedoor NSWS」より引用)
旅の恥は掻き捨て、という悪しき言葉が日本にはある。旅先で少々ハメを外しても「許される」という甘えの構造を表している。
しかし旅の恥はついて回ることを忘れてはならない。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」(松尾芭蕉「奥の細道」)。人もまた時間空間を旅する旅人でもある。ことに遺産や遺跡などに落書きなど行えば、死後も恥はついて回る。
法隆寺や東大寺など日本の木造建築物に釘などで引っ掻いた落書きが物議を醸したのは記憶に新しい。日本の大学生がイタリアのピサの斜塔に落書きして世界に日本人の恥を晒したこともある。
いつから日本国民から「恥」の観念が薄れたのだろうか。幼子を虐待しても一人前の大人として「恥ずかしい」と思わない大人が増えた。そればかりではない、地位を笠に着て威張り散らしても「恥ずかしい」と思わない団体幹部の愚行がニュース紙面を賑わしている。
団体「会長」だけではない。日本国総理大臣が「#ケチッテ火炎瓶」をSNSで拡散されても日本のマスメディアは申し合わせたように一切触れない。SNSで大炎上しようと恥とも思わない人物が総理大臣に就いて、さらに三選を目指しているのが日本という国だ。
その総裁選のキャッチコピーが「正直 公正」対「責任 実行」とは、どこの小学校の児童会長選挙かと涙が出る。「正直 公正」対「責任 実行」を掲げて闘う自民党総裁選挙で、自民党国会議員や自民党員諸氏は恥ずかしいと思わないのだろうか。
いや誰も恥ずかしいと思わないほど日本国民は劣化したのだろう。「日本は素晴らしい」とテレビが自画自賛番組を制作しているうちに、日本国民のうちでも特に国会議員や知事や市町村長などの、人の上に立つ人達が卑しく恥知らずの大嘘つきが目立つようになってきた。ついには病院のエアコンが壊れて入院患者が熱中症で五人も亡くなっても陳謝すらしない病院長医師まで現れるに到っては、世も末だ。
広島県の帝釈峡に刻まれた名字の人たちは肩身の狭い思いを子々孫々まですることだろう。恥知らずを育てると、一族郎党といわず多くの人たちが恥ずかしい思いをする。まさか我が名が国の天然記念物の大岩に刻まれたことを誇りに思ったりはしないだろう。