原爆を使用するまでもなく、いま生きているすべての人類は百年後には誰も生きてはいない。人は勇んで殺すまでもない存在だということを全人類は認識しよう。

��全米での銃規制デモを受け、ホワイトハウスは24日、「憲法で保障された表現の自由を行使する勇気ある若者を称賛する」との声明を発表した。ただ、トランプ大統領自身はこの日、南部フロリダ州に所有するゴルフ場や別荘で過ごし、公の場に姿はみせなかった。




 デモに先立つ23日、司法省は半自動小銃に取り付けることでフルオート(全自動)銃並みの連射を可能にする銃床「バンプストック」の販売・所持を禁止する方針を発表。政権としては銃規制に「消極的」との批判をかわす狙いがある。



 銃規制に積極的でないのはホワイトハウスや与党・共和党だけではない。



 昨年10月、58人が犠牲となる「米史上最悪の銃乱射事件」が西部ネバダ州で発生した直後、野党・民主党議会選挙対策委員会が今年11月の中間選挙の下院選立候補予定者らに通達メールを出した。「今はこの事件を政治化しないこと」。ニュースサイト・ハフポストが銃規制論議を事実上禁じたメールの内容を報じると、規制提唱団体などから失望と怒りの声が上がった。



 銃規制強化に前向きとされる民主党でさえ、選挙を前にして論議をためらうのが米国の現実だ。背景にあるのは、個人の権利を重視し、銃所持をその象徴と捉える国民感情だ。



 この心理に巧みに訴えたのが、銃規制に反対するNRA。規制強化が提起されるたび、武器保有の権利を認めた合衆国憲法修正2条の是非論に結びつけ「国民の主権と価値観が侵されている」と不安をあおる主張を展開した。2016年大統領選ではトランプ陣営支援に3000万ドル(約31億円)を投じるなど政界への影響力を保持。長年にわたり銃規制論議をタブー化することに成功してきた。



 銃被害は建国の理念を守る「代償」と言われることさえあった米社会。だが、若者たちが「もうたくさんだ」と声を上げ始め、変化を印象付けた。銃規制派は11月の中間選挙での争点化を目指す。調査会社ユーガブなどが実施した世論調査で、銃規制強化は「可能だ」と答えた米国民は2月のフロリダ事件後に過去最高の50%に達したが、今月の調査では44%に下降した。今後半年間、24日の行進で全米に広がった共感を維持できるかが課題となる>(以上「毎日新聞」より引用)


 全米各地で100万人を超える「銃規制」を求めるデモがあった。いうまでもなく、全米各地で頻発する銃乱射による犠牲者が毎週のように出ているからだ。

 人口3億875万人(2010年4月 米国国勢局)に対して控えめに見て米国社会で2億7千万町が保有されているといわれている。そして2016年で1万1000人以上が銃で殺されている。殺人者の実に64%が銃で殺害されている。


 しかし米国内では依然として銃規制が実施されようとしない。銃所持規制の前に壁のように立ちはだかるのは「全米ライフル協会(NRA)」だ。米国内に400万人会員を抱えるNRAは「Guns don't kill people, people kill people.(銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ)」を合言葉に、各個人の「自衛」のために銃は必要だとしている。

 トランプ大統領は高校などの銃乱射事件の頻発に「教師が銃で武装すれば良い」と、教師に銃を持たせようとしている。皮肉にも銃乱射事件がさらなる銃購入の契機になっている。


 自衛権を盾に米国社会は銃を手放せないようだ。その様は外敵を理由に武力保持を正当化している日本の自衛隊と似ている。自衛隊の銃が日本国民に向けられたことがないのは世界的な視点で見れば奇跡的だ。

 お隣の韓国や中国では国内の治安維持に「戒厳令」が出されたり、デモや紛争鎮圧に軍隊が出動した歴史がある。北朝鮮は常時通報奨励と残虐な刑法等により、常に国民は銃口の前に立たされている。


 全米ライフル協会のスローガン「Guns don't kill people, people kill people.(銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ)」は一見マトモのようで、それは誤魔化しでしかない。手許に銃がある場合と、ない場合とで「殺人に到る距離」はどちらが近いかを考えれば簡単に分かることだ。

 確かに銃そのものに判断力はないが、銃を手にした人は銃の魔力により判断を操られる。自分と相手の間に銃が介在することにより、感覚が対外化して殺人が他人事のように感じられる。それは「私が人を殺したのではない、銃口から飛び出た弾丸が人を殺したのだ」という感覚だ。


 幻覚でも見ているかのような感覚の内に殺人が行われる。すべての殺人は相手の生存権を奪う卑劣な行為だが、銃による殺人は殺人行為の当事者としての感覚を麻痺される。それだけに危険だ。

 それは「エネルギー源の分散化という国策だ」という大義名分が立てば、自分たちの行為で国民が被爆により死亡するかも知れない、という危険性も緩和されるのと似ている。正当化される理屈を国によって用意されているため、原発がなかなか廃炉に向かって動き出さないのと酷似している。


 それらに共通するのは他者を思いやる想像力の欠如だ。自身の命を大事にする心で、相手と対峙すれば殺人など起こせないはずだ。銃を持つ者は銃によって殺される。そうした対照関係にあることを理解していない人が銃を持つ「権利」を主張しているに過ぎない。

 高々百年も生きない人類が銃を社会に氾濫させて命を縮めあっている滑稽さになぜ気づかないのだろうか。原爆を使用するまでもなく、いま生きているすべての人類は百年後には誰も生きてはいない。人は勇んで殺すまでもない存在だということを全人類は認識しよう。



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