日本は世界に誇る文化国家だろうか。

 私はライフワークとしている小説を細々と書いている。今は20年以上も前に書いた「蒼穹の涯」という伊藤博文の生誕から明治余年までの半生を描いた「歴史小説」を加筆訂正している。
 書いて以来、放置していた「蒼穹の涯」を一読してみて、余りの酷さに放置していてはならないと老骨に鞭打って訂正・加筆を行っている。そうすると当時の感慨が甦ってきて、どうしても書き残しておかなければならなくなった。

 当時、歴史テレビドラマなどで描かれる伊藤博文に対する評価の余りの低さに嘆き、どうしても真実の伊藤博文の姿を世間に知って頂きたいと願い「歴史小説」を書く決意をした。だが書く決意をしたものの手元に史料があるわけではなく、まずは伊藤博文に関する史料収集から始めなければならなかった。
 ただ史料収集ではその前に「白井小助」を描いた歴史小説「君は黎明を見たか」を書き、今は廃刊になったが岩国の地方紙「防長新聞」に半年にわたって連載していたからおおよその史料のありかは解っていた。しかし実際に収集を始めると本来なら収集しているはずの図書館が「貸本屋」になり果てているのに愕然とさせられた。

 まず驚いたのは山口県立図書館に碌な史料となるべき本がなかったことだ。次に伊藤博文の出身地の図書館(当時は大和町立図書館)が農家の物置に様なものでしかないことに驚かされた。今は立派な「伊藤公は粒区間」のコーナーに僅かな史料が収集されているが、とても伊藤博文の「歴史小説」を書くほどの量はない。
 大和町の近くの自治体の図書館にも足を運んで調べたが、枕を並べて討ち死にの状態だった。ただ岩国市立中央図書館に多くの史料が遺されていて、やっと伊藤博文の全体像が掴めるようになった。何かと便宜を図って頂いた岩国中央図書館長の稲生氏(当時)には今も感謝している。

 安倍氏は明治維新百五十年、と大きな顔をして叫んでいるが、その明治維新を果たした薩長の長州・山口県ですらこの有様だ。日本は文化を大切にする、と自画自賛テレビ番組は日本賛歌に余念がないが、実態はこの有様だ。
 そして長州藩の歴史を「復刻」して保存活動している「マツノ書店」(旧・徳山市)の活動には頭の下がる思いだ。マツノ書店の業績がなければ「蒼穹の涯」は出来なかった。

 私は既に年を取ってしまったが、若い人に是非とも言っておきたい。
 文化は散逸すれば取り返しがつかないものだ。僅か百五十年以前の江戸時代の公文書は漢文だった。そして話し言葉の口語体で小説などが書かれるようになったのは明治になってからだ。それ以前は漢文の「書き下し文」のような文章が「常識」だった。
 私が読んだのも「書き下し文」の史料だ。それも印刷してあるから読めたに過ぎない。古文書のままなら確実に読めなかっただろう。わずか百五十年前の日本人が書き残した史料が今を生きる私たちが読めなくなっている。

 万葉かなの草書体など普通の日本国民では解読が困難だ。義務教育で学習する機会すら与えられていない。ただ高等学校で私たちの世代は漢文と古典でそれらの活字にされた文書を読む手解きは受けた。しかし、それ以上ではない。
 岩国市には旧・吉川家から寄贈された古文書を蔵する「徴古館」があって、学芸員もいて岩国藩の古文書は大切に保存・展示されている。そう、関ヶ原で東軍に与した吉川広家の歴代の古文書だ。岩国藩は長州藩の支藩として六万石を与えられて芸州藩への備えとして国境の岩国に封じられた。

 文化や遺産は現代を生きる私たちが責任をもって次世代へ引き継がなければならない。途切れれば二度と復元出来ないものばかりだ。「温故知新」という。碌に過去を振り返らないで、未来志向の歯の浮くような言葉ばかり発する安倍氏は決して長州人ではない。現代の長州人は長州の文化や遺産を必死で守っている一握りの人たちでしかない。


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