いかなる理由があろうとも、人の命を奪った者は罰を受けなければならない。

<19人が死亡した相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件で、捜査関係者によると、元同園職員、植松聖(さとし)容疑者(26)は7月26日に逮捕されてから一貫して、障害者への殺傷行為の「正当性」を主張しているという。取り調べには騒ぐことなく素直に応じているが、集中力が途切れやすい一面があり、話すことに飽きると黙り込むこともあるという。

 「今の日本の法律では、人を殺したら刑罰を受けなければならないのは分かっている」。植松容疑者はこれまでの調べでそう供述する一方、事件への反省の言葉はなく、「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」という趣旨の発言もしているという。

 事件に至った背景については、障害を持つ中学時代の同級生とのかかわりや、学生時代の障害者支援ボランティア活動などを通じ、「障害者は不幸をつくる人たちだと思うようになった」などと供述しているという>(以上「毎日新聞」より引用)

 現行の刑法では精神障害、異常者、薬物中毒者、精神耗弱状態などにより刑事責任能力がないと判断されれば通常の殺人罪が適用されないことになっている。だから大量殺人を犯しても、取り調べから裁判まで一貫して異常な言動を続けていれば刑法により死罪の判決を受けることはない。
 刑事責任能力がないとして精神病院へ送られて厳重な監視下で生涯を精神病の治療で過ごすことになる。しかし果たしてそれが人道的な措置だろうか。

 それでは殺害された被害者の人権はどうなるのだろうか。確かに刑罰には「目には目を」という報復を求めるものではなく、社会復帰を目指す教育的な側面がある。それは認めるが、認めた上でも殺人に関してはいかなる理由があろうとも「社会復帰のための教育」的な刑事罰を受け入れられない。
 それはそれ以降の人生を奪われた被害者がいるからだ。彼らにはそれ以後も生き続ける権利があった。それを奪われたことは何を以ても代えられない、何があっても元に戻せない不可逆的な重大事だ。

 不可逆的な重大事を犯した者はたとえ精神障碍者であれ何であれ、自らの命で償うしかない。現行法の殺人被害者が一人では殺人者は死刑に問われない、というのも納得できない。
 一人でも殺人を犯した者はその自らの命で贖うべきだ。社会で殺人を犯した者と一緒に暮らすことは一体何だろうか。彼により命を奪われた人の無念を思わずに同じ社会で暮らせ、ということなのだろうか。現行法はあまりにも生きている者の身勝手な組み立てになってはいないだろうか。

 19人もの命を奪った者が抱く幻想は勝手に抱いていれば良い。社会に不適合な殺人者として死罪を課すしかない。いかなる異常者としての言動があろうと、人の命を奪った事実を帳消しにはできない。


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