IOCはオリンピック精神に恥じない団体か。
<国際オリンピック委員会(IOC)がリオデジャネイロ五輪へのロシア参加の是非を各競技の国際連盟に委ねた。開幕まで2週間を切ったタイミングでの決定を受け、各団体は急な対応を迫られる。全面的な参加禁止という厳罰を見送ったIOCの決定には、米欧から責任回避との批判が出ることも想定される。
「決定文を読めば、どれだけ参加へのハードルを高くしたかがわかる」。電話での記者会見で対応の甘さを指摘されたIOCのバッハ会長はこう主張した。他国のクリーンな選手に不公平ではないかとの質問に対し、「ロシア人選手の参加条件は厳しい」と何度も繰り返した。
五輪には冷戦時の苦い経験がある。米ソの激しい対立を受け、1980年のモスクワ大会では日米を中心とする西側諸国が、84年のロサンゼルス大会ではソ連や東独などがボイコット。「平和の祭典」が国際政治に屈した時期で、日本でも柔道の山下泰裕氏やレスリングの高田裕司氏が涙ながらにモスクワへの参加を求めた場面は有名だ。
冷戦終結後は参加国が増え、2012年のロンドン五輪の参加国・地域は204に上った。ロシア欠場はこの流れを変え、白熱するはずの競技に冷水を浴びせることになる。先に不参加が確定した女子棒高跳びの世界記録保持者イシンバエワ選手はソーシャルメディアで他国の選手に対し、「偽の金メダルを取ればいい」との皮肉を発信している>(以上「日経新聞」より引用)
ロシアのドーピング問題でリオ・オリンピックに全面出場禁止か否かの判断をIOCは行わず、「その方が望ましい」との意見を付して各競技団体に任せたようだ。しかし、それに対して欧米諸国はIOCの責任逃れだという批判が上がっている。
IOCへの批判は当たり前の話だといえば当たり前ではないだろうか。ロシアの国家ぐるみのドーピングがあった事実は国際的な反・ドーピングは各選手の競技に対する公平・公正な取り決めを破って、ロシアが「抜け駆け」をしていたことに対するペナルティが各選手に対するペナルティに緩和されたのは「選手を守る」ための反・ドーピング協定の精神を踏みにじむものではないだろうか。
国際的な取り決めがあろうと何だろうと、とにかく勝つことが「正義」だという価値観が優先されるのは危険だ。女子棒高跳びの世界記録保持者イシンバエワ選手はソーシャルメディアで他国の選手に対し、「偽の金メダルを取ればいい」との皮肉を発信している、というがドーピングしたロシア選手が獲得したメダルは「偽りのメダル」ではなかったのだろうか。
イシンバエワ選手はドーピングをしていなかったというのなら彼女が属しているロシア選手団が国家ぐるみでドーピングを行っていた事実に対するペナルティを回避することによりロシアの体質が徹底的に批判されなかったことに対する「犯罪」に対する「支援」にならないかという危惧はないのだろうか。
いかなる犯罪的行為を行うとも、それが何であれ押し通せて既成事実として定着すれば、それが「正しいこと」になるのだという国家体質と関係しているのではないだろうか。ロシアは日本の北方領土を「火事場泥棒」して軍事力で圧倒していれば「規定事実」としてロシア領になる、という誤った『成功体験』を国家戦略としてロシア国民も洗脳されている。
その成功体験によりクリミア半島のロシア編入、という暴挙も「住民投票」という一見民主的な手続きと、後は圧倒的な軍事力により国際的に正当化しようとしている。しかし誤りはどこまで時間が経過しようと誤りでしかない。
ロシア国民は自分の国家が犯している『誤り』に関して恥ずべきだ。してはならない「軍事力を背景にした」強制により、国際的な我儘も正当化できる、というのなら再び世界は世界戦争の愚挙を繰り返すことになりかねない。
欧米諸国は散々国土を破壊され、国民の多くが犠牲になって「戦争は回避すべき」との共通認識を獲得したはずだ。しかしロシア(旧ソ連)と米国は先の大戦以後も軍事力を背景にして世界を支配できる、という前世紀的ドグマを国家戦略として現在も存続させている。そこに経済力を獲得した中国も軍事的な膨張主義を既成事実として海洋進出を行えばそれは正当化される、と勘違いしている。
ロシアの国家ぐるみのドーピング問題の根は軍事的優位さえあれば何でも正当化できる、という誤った国家戦略に根があるといえる。しかし、IOCはそれを正すべき最終段階で判断を各競技団体にゆだねる、という決定により降りてしまった。
IOCはオリンピック競技をオリンピック精神により実施し、世界平和を地球に実現するという高尚な精神を統括する機関として正常に機能しているといえるだろうか。単なる各競技のワールドカップの総合版だというのなら、IOCなる組織は必要ないことになる。世界平和を希求する高遠なオリンピック精神はIOCという既得権益団体に堕してしまったのではないか。
カネまみれオリンピックという批判を今度はIOCに投げかけなければならないだろう。選手に対する「ドーピング」はIOCに対するカネまみれという「ドーピング」に相通じる問題ではないだろうか。
厳しい「規定」を設定したのなら、厳しい「実施」を要件とするのは当たり前のことだ。それを蔑ろにして「抜け駆け使用」をしてもバレなければ問題ない、というのなら規定は有名無実化する。世界平和が国際規定を無視する少数の国により危機の瀬戸際に追い込まれている現実と符合するかのように。
「決定文を読めば、どれだけ参加へのハードルを高くしたかがわかる」。電話での記者会見で対応の甘さを指摘されたIOCのバッハ会長はこう主張した。他国のクリーンな選手に不公平ではないかとの質問に対し、「ロシア人選手の参加条件は厳しい」と何度も繰り返した。
五輪には冷戦時の苦い経験がある。米ソの激しい対立を受け、1980年のモスクワ大会では日米を中心とする西側諸国が、84年のロサンゼルス大会ではソ連や東独などがボイコット。「平和の祭典」が国際政治に屈した時期で、日本でも柔道の山下泰裕氏やレスリングの高田裕司氏が涙ながらにモスクワへの参加を求めた場面は有名だ。
冷戦終結後は参加国が増え、2012年のロンドン五輪の参加国・地域は204に上った。ロシア欠場はこの流れを変え、白熱するはずの競技に冷水を浴びせることになる。先に不参加が確定した女子棒高跳びの世界記録保持者イシンバエワ選手はソーシャルメディアで他国の選手に対し、「偽の金メダルを取ればいい」との皮肉を発信している>(以上「日経新聞」より引用)
ロシアのドーピング問題でリオ・オリンピックに全面出場禁止か否かの判断をIOCは行わず、「その方が望ましい」との意見を付して各競技団体に任せたようだ。しかし、それに対して欧米諸国はIOCの責任逃れだという批判が上がっている。
IOCへの批判は当たり前の話だといえば当たり前ではないだろうか。ロシアの国家ぐるみのドーピングがあった事実は国際的な反・ドーピングは各選手の競技に対する公平・公正な取り決めを破って、ロシアが「抜け駆け」をしていたことに対するペナルティが各選手に対するペナルティに緩和されたのは「選手を守る」ための反・ドーピング協定の精神を踏みにじむものではないだろうか。
国際的な取り決めがあろうと何だろうと、とにかく勝つことが「正義」だという価値観が優先されるのは危険だ。女子棒高跳びの世界記録保持者イシンバエワ選手はソーシャルメディアで他国の選手に対し、「偽の金メダルを取ればいい」との皮肉を発信している、というがドーピングしたロシア選手が獲得したメダルは「偽りのメダル」ではなかったのだろうか。
イシンバエワ選手はドーピングをしていなかったというのなら彼女が属しているロシア選手団が国家ぐるみでドーピングを行っていた事実に対するペナルティを回避することによりロシアの体質が徹底的に批判されなかったことに対する「犯罪」に対する「支援」にならないかという危惧はないのだろうか。
いかなる犯罪的行為を行うとも、それが何であれ押し通せて既成事実として定着すれば、それが「正しいこと」になるのだという国家体質と関係しているのではないだろうか。ロシアは日本の北方領土を「火事場泥棒」して軍事力で圧倒していれば「規定事実」としてロシア領になる、という誤った『成功体験』を国家戦略としてロシア国民も洗脳されている。
その成功体験によりクリミア半島のロシア編入、という暴挙も「住民投票」という一見民主的な手続きと、後は圧倒的な軍事力により国際的に正当化しようとしている。しかし誤りはどこまで時間が経過しようと誤りでしかない。
ロシア国民は自分の国家が犯している『誤り』に関して恥ずべきだ。してはならない「軍事力を背景にした」強制により、国際的な我儘も正当化できる、というのなら再び世界は世界戦争の愚挙を繰り返すことになりかねない。
欧米諸国は散々国土を破壊され、国民の多くが犠牲になって「戦争は回避すべき」との共通認識を獲得したはずだ。しかしロシア(旧ソ連)と米国は先の大戦以後も軍事力を背景にして世界を支配できる、という前世紀的ドグマを国家戦略として現在も存続させている。そこに経済力を獲得した中国も軍事的な膨張主義を既成事実として海洋進出を行えばそれは正当化される、と勘違いしている。
ロシアの国家ぐるみのドーピング問題の根は軍事的優位さえあれば何でも正当化できる、という誤った国家戦略に根があるといえる。しかし、IOCはそれを正すべき最終段階で判断を各競技団体にゆだねる、という決定により降りてしまった。
IOCはオリンピック競技をオリンピック精神により実施し、世界平和を地球に実現するという高尚な精神を統括する機関として正常に機能しているといえるだろうか。単なる各競技のワールドカップの総合版だというのなら、IOCなる組織は必要ないことになる。世界平和を希求する高遠なオリンピック精神はIOCという既得権益団体に堕してしまったのではないか。
カネまみれオリンピックという批判を今度はIOCに投げかけなければならないだろう。選手に対する「ドーピング」はIOCに対するカネまみれという「ドーピング」に相通じる問題ではないだろうか。
厳しい「規定」を設定したのなら、厳しい「実施」を要件とするのは当たり前のことだ。それを蔑ろにして「抜け駆け使用」をしてもバレなければ問題ない、というのなら規定は有名無実化する。世界平和が国際規定を無視する少数の国により危機の瀬戸際に追い込まれている現実と符合するかのように。