給付型奨学金の創設が「教育再生会議」という仰々しい機関決定で行うものなのか。

 何でも仰々しい名称をつけたがる内閣だ。たかが欧米では当たり前の給付型奨学金を創設するだけでも「内閣官房教育再生実行会議」などという機関を設置しなければ気が済まないという。
 そこで委員を招聘して議論して「大学の有り方」などを決めるという。何を今更、という感を抱くのは私だけだろうか。

 政府は国立大学を「独立行政法人」などというヘンテコな組織に改編し、経営効率を求めるということになっている。がしかし、教育に「経営効率」などという概念がそぐうのだろうか。
 教育の効率化とは一体なんだろうか。いや、研究開発に効率化を求めることが馴染むのだろうか。

 人を育てる、ということは合目的化できるものではないだろう。工業製品なら一定の規格と品質があれば合格と判定できるが、大学などの高等教育に関して「合格」と判定するのは困難だ。
 再生細胞でノーベル賞を受賞した御方は外科医として余りの不器用さから落第の烙印を押されて、医療現場から研究の場へと移った医師としては落第生だった。しかし再生細胞研究で第一人者となりノーベル賞を受賞した。

 教育や研究とはそうしたものだ。内閣府で仰々しい名称を冠した会議で「規格品」を決定して、それで完成だ、という馬鹿げたものではない。なぜサッサと給付型奨学金を実施しないのだろうか。安倍氏が世界にばら撒いている日本国民にとって意味のない援助金の数十兆円のごく一部で簡単に実施できる。
 さらにいわせてもらえば、国立大学の入学金や授業料を公立高校並に引き下げることだ。実力があっても家庭の貧困から進学を断念する子供たち、殊に女子が多いことを御存知だろうか。

 成績優秀なら授業料免除制度がある、と反論が聞こえてくるが、「成績優秀」が直ちに有能な人材か否かは疑わしい、ということを前述の中山教授の例で説明したつもりだ。大学での成績が優秀であろうがなかろうが、国立大学に入学できる程度の学力があれば、その学生は充分に優秀だ。
 日本の未来を考えるなら、すべての国立大学の学生に授業料免除をしても良いくらいだ。世界に誇れる日本の資源は「人材」だ。その人材の可能性を広げるためには教育投資が必要だ。仰々しい名称の会議で「有識者」と称する人たちを招聘して話し合う暇があったら、サッサと予算を付けて実行すべきだ。

 私が国立大学に通っていた当時の授業料は年間1万2千円だった。田舎の六畳一間の家賃が月額4千円の時代でだ。その水準まで授業料を引き下げても罰は当たらない。むしろ引き下げるべきではないだろうか。未来への投資だと考えたなら安いものだ。


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