宗教も現代社会を映す鏡の一つだ。

<イランのアンサリ外務報道官は7日、イエメンの首都サヌアにあるイラン大使館が6日夜にサウジアラビア主導の連合軍による空爆を受け、多数の警備員が負傷したと発表した。空爆は大使館周辺だったとの報道もあるが詳しい状況は不明>(以上「毎日新聞」より引用)

 イランとサウジアラビアの宗派対立が深刻化している。同じイスラム教だがイランがシーア派を信仰する国民が9割近くを占めるのに対してサウジアラビアはスンニ派を信仰する国民が8割5分もいるという。
 そうした宗派対立が今回の事態を招いているとマスメディアは伝えている。確かに宗派が異なれば国同士が対立するのも頷ける。日本国内でも同じ日蓮宗を信仰するお寺と創価学会が対立して久しい。しかし実態を見てみると、宗派対立というよりも政治指導者の思惑、たとえば主導権争いや利害対立などの極めて世俗的な対立が事態を招いている場合が多いようだ。

 イランとサウジアラビアはロシアと米国の代理戦争を演じている側面が強いようだ。今回の対立の激化を招いたのは米国の影響力の低下が大きい。
 元々米国はサウジアラビアを支持しイランとは核開発などを巡って敵対関係にあったが、イランの核を認めることで米国がイランに歩み寄った。それにより相対的にサウジアラビアとの関係の信密度が薄れてしまい、ペルシャ湾を挟んだサウジアラビアとイランとのパワーバランスが似通ったものになった。

 国力に大差があるうちは隣国同士は敵対しない。しかし隣国の力関係が同等になると軋轢が増す。地域の主導権争いを演じる方向で政治家たちが国民の支持を引き付けようと画策する。たとえば日本は中国を意識していないが、中国は経済的に先進国・日本に近づき追い抜いたことにより日本への対抗心を反日政策で露わにするようになった。
 現代は貨幣経済を基盤として世界各国が繋がり、資源利権の争奪をめぐって国々が争っている。政治指導者が個人的に富を手にする場合もあるが、一般的には国家ために世界的な利権を獲得して国民を飢えから解き放とうと考えている。

 そうした場合に直接的な「慾」を前面に出すよりも、宗教や宗派を前面に出して国民の闘争心を煽る方が求心力を得やすい。だからこれほどの科学万能の現代でも、政治の世界では宗教や宗派が根強く生き残っている。
 宗教はいつの時代でも社会を映す鏡だ。日本でもかつては一向一揆など政治権力を脅かす宗教運動盛んな時代があった。宗教指導者が信者の殺生与奪の権限を一手に握って、政治権力者に戦いを挑んだ。

 現代の宗教は必ずしも心の平安を希求する精神活動ではない。むしろ現世欲を実現する手段と化している。宗教指導者たちも「この宗教を信仰すれば病気が治る」とか「商売繁盛」だとか、怪しげな勧誘文句で現代社会に根を張り巡らしている。そうした怪しげな宗教が国家を動かしだしたら大変なことになるのは自明の理だ。なぜなら信仰は思考停止を強要するからだ。
 神を信じるためには自らの頭脳で考えてはならない。神のお告げがすべてに優越し絶対無二だ、と思い込むことを強制する。多様な価値観など宗教と対極をなす。ことに一神教のイスラム教やキリスト教にそうした強制力が強い。

 人間は本来、融通無碍で曖昧な存在だ。状況によって妥協的になるし、強行になったりする。優しくなったり厳しくなったりする。それが人間だ。しかし宗教は絶対帰依の画一的な信者を求める。大変危険だが、イランとサウジアラビアが全面戦争になることは決してないと断言できる。なぜなら宗教を指導している人たちが世俗的な慾にかられているからだ。すべてを破壊し尽くす全面戦争に突入したら彼らの政治的地位も何もかも失うことになるからだ。なによりも国民に優越する地位を失いかねない。彼らもまた現代社会に生きる人間の一人に過ぎない。


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