「成人の日」や「敬老の日」は単なる国民の休日になったのか。

 月曜日に自動的に移動して連休にする、という法律が出来てから、一体何の日だったか訳が分からなくなったような気がするのは私だけだろうか。今年の「敬老の日」は9月21日(月曜日)ということだそうだ。それで五月のゴールデンウィークに倣ってシルバーウィークというのだそうだ。
 連休が増えれば行楽に出かける国民が増えて消費が増える、という目論見だそうだが、果たしてそれで良いのだろうか。国民の「祝日」とは一体なんだろうか。仕事や学校を休んで遊びに行く日の一つに過ぎないのだろうか。

 それぞれ祝日に制定した当初は、制定した日に意義があったはずだ。しかし休日ということが先に立ち、「祝すべき内容」が忘れ去られると、同じ休日なら日曜日に続ければ「連休」となり「ラッキー」ということになる、という話のようだ。
 何とも愚かなことだろうか。それなら元旦も月曜日に移せば良いではないか。昭和天皇陛下の誕生日も「みどりの日」だとか「海の日」だとか名称を考えたりせずに「ゴールデンウィーク・プラス」とかにすれば、名称を勝手に変遷させるよりもバカさ加減がはっきりして却ってスッキリするだろう。

 しかし「ゴールデンウィーク・プラス」と名称変更することがどれほど不敬にあたるか、指摘するまでもない。それと同様に9月15日から勝手にいつの日かは判らない月曜日に毎年移される「敬老の日」が「不敬老の日」になっているとは思わないのだろうか。
 そして各市町村で実施される「敬老の日」行事の参加資格年齢が次第に引き揚げられ、今や65才はまったく祝ってもらえない年齢になってしまった。いやそれどころではない。数が増えたからといって「敬老の日」に祝す人対象年齢を70才から75才に引き上げた市町村もあるようだ。

 確かに現在の70才は孔子の時代の「古希(古来稀なり)」とは言い難いほど多くの人が迎えているだろう。しかし「古希」でなくなったとしても、70才まで生きて来られた先輩諸氏の御苦労なくして現在の日本はあり得ない。
 先輩の労苦を労うことは自分たちが老いた時に労って戴ける保障のようなものだ。人生は廻り講ともいう。若者たちだけで今の日本があるのではない。嘴の黄色い国会議員たちが「連休が増えることが国民の希望だ」とか何とかいって連休のコマに「敬老の日」を使ったのだろうが、私は飛んでもないことだと思う。敬老の日や成人の日は行楽のためにあるのではない。もう一度本来の意義を噛み締める時ではないだろうか。時恰も思惟に耽るに相応しい時節だ。


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