「戦争法案」に対案は必要か。

<民主党と維新の党の幹事長と国対委員長は7日、国会内で会談し、安全保障関連法案の対案である領域警備法案について、共同提出を見送ることを確認した。会談直前まで共同提出に合意していたが、維新が両党であらかじめ採決日程を決めた上で、与党と交渉に入ることを提案し、民主党が反発した。対案は8日にそれぞれ単独で提出するが、土壇場の決裂は両党の溝の深さを改めて印象付けた>(以上「産経新聞」より引用)

 安倍自公政権が15日に採決を目指しているといわれる「戦争法案」に対して、維新の党は対案を提出するという。それに民主党も乗って共同提案とするのかとの憶測が流れていたが、第二自民党と自民党の補完政党との思惑はかなり異なっていたようだ。
 維新の党は最終的に「戦争法案」が成立するのに手を貸そうとしているのに対して、民主党は第二自民党として安倍自公政権が目指す15日の採決に反対しているようだ。しかし「戦争法案」に国民の過半数は反対している。対案提出よりも野党は国民の声を味方にして、徹底反対を貫かないのだろうか。

 対案提出は安倍自公政権が丸呑みして、その上で自公提出法案に盛り込めば「戦争法案」に反対する根拠を失うことになる。対案を盛り込むのは論理矛盾を抱えることになりはしないかという懸念を抱く必要はない。なぜなら「戦争法案」そのものが法案として論理破綻を起こしているからだ。
 つまり安倍氏の頭の中には「解釈改憲」したのと同様に「戦争法案」も「解釈改正」を行えば何でも出来ることになるからだ。それなら維新の党が対案として持ち出す新概念も何もかも、「戦争法案」に盛り込んでも何ら矛盾は生じない。「戦争法案」そのものが憲法とは相容れないものだから、戦争法案の論理構成などどうでも良いことになる。時の政権が戦争法を「解釈」して運用すれば良いだけだ。その運用根拠は米軍の要請だけで正当化されることになる。

 そうした憲法を無視した法案が成立してしまえば、この国の立憲主義は根底から覆されてしまい、時の政権の裁量が野放図に拡大されることになる。それこそかつて大東亜戦争へと到った道をこの国は再び歩み出そうとしているのだ。
 軍部・軍需産業癒着体制が主導権を取り、天皇の意思を騙って国民を欺いて無謀な勝ち目のない戦争へと突き進んだ記憶を日本国民はすっかり忘れたかのようだ。翼賛体制を敷くべくマスメディア統制発言を繰り返しているのは一部自民党の跳ね返り議員だけではない。安倍自公政権そのものが報道統制に乗り出している。その格好の例がNHK会長人事であり、民放のニュース番組への介入だ。

 戦争遂行を可能にするには若者を貧困に追い込む必要がある。若者が戦場で稼ぐ以外にマトモな生活を送る手段を奪う必要があるからだ。その装置の一つが「非正規・派遣社員の固定化」法案成立だった。それにより正規社員への道を絶たれた多くの若者はギリギリの不安定な生活を余儀なくされることになる。彼らの不安な精神環境が兵隊の供給源になる。
 戦前の日本もそうだった。「大学は出たけれど」という文句は就職氷河期のモノではなく、戦前の流行り文句だったことを忘れてはならない。時の政治家が「国民の生活が第一」の政治を忘れて、何か意味不明な「大義」や「国家危機」を叫び出したら危険な兆候だ。
 日本は外交問題の解決手段として戦争を放棄した。自衛のための戦闘も「周辺事態」に限定されてきた。集団的自衛権の行使も「周辺事態」に限っての行使の是非を議論してきた。それが一気に地球全域に拡大され、日本の防衛のためなら何でも出来ることに拡大される、というのはいかなる原因であれ戦争が出来るということだ。こんなバカな「戦争法案」に対案が必要かのか。ただただ廃案に追い込むだけではないのか。政治家諸氏は永田町という非常識な街の空気を呼吸して、国民の声に耳を塞いでいるようだ。


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