経営効率化を求める国立大学改革とは。

 文科省は国立大学の経営効率化を求めて行政法人化を行い、毎年1%ずつ交付金を減らしてきた。税に経営財源のほとんどを依存している国立大学に行政が経営効率化を求めるのは当然のことと理解しつつも、経営効率と学術研究が馴染むのか、といった相反する考えも湧き上がってくる。
 ここに来て、文科省から全国の国立大学に文科系学部の廃止を求める通達が出されたという。教育学部系や文学部系の学部は経営効率化のために切り捨て、より一層理系学部に予算を投じて企業の求める人材養成に沿った学部の充実を図るべきだというのだ。恰も大学が企業に対する人材供給装置に特化すべきだというかのようだ。

 いうまでもなく、学術文化の進化には多様な観点や考え方が必要だ。技術革新や産業進化にはそれに対応した社会の進化や人の考え方の多様性が必要だ。
 たとえば今日の大学で哲学が旧来の大学と比較して研究されなくなって久しい。哲学は企業生産に直接的には役立たないだろう。しかし淘汰されて消えてなくなっても仕方ない学問だとは思わない。哲学することにより人のあり方や社会のあり方、人と社会の関係などの深層化などがはかられる。

 企業経営は最終的に人間関係のあり方だ。いかなる企業であれ、複数の人により形成される。
 しかし人は機械ではない。一定のエネルギーを投下すれば一定の労働生産性から一定の期待値の通りに生産できるものではない。ましてや研究開発に関しては尚更だ。計測された機体通りに研究開発成果が得られるのなら経営者は気楽な商売だろう。

 学問を文系や理系に分類しているのは便宜的な研究者の都合に過ぎない。たとえばアインシュタインの頭脳に必要だったのは原子物理の論理だけだったかというとそうではない。人類の幸福とは何かといった、哲学的な思惟も必要だったはずだ。
 人は総合的な存在だ。「人はパンのみに生きるに非ず」という言葉を思い出すまでもなく、成長過程において様々な要素を万遍なく獲得することにより安定した情緒と思惟を備えた人格が形成される。それこそが企業が必要としているもののはずだ。

 大学に経営効率を求めるのは警察や消防に「経営効率」を求めるのと似ている。例えばもっとも経営効率の悪い官僚組織は何かといえば自衛隊だろう。なぜなら目的とする防衛戦争は自衛隊創設以来一度もなかったからだ。しかし、それでも自衛隊は必要だ、というのは官僚たちも認識している。
 それなら大学に対して経営効率を求めるのも、決して度を越してはならない、ということも理解すべきだ。治安維持のために一定数の警察官は必要で、事件処理等で絶えず全員がバタバタと働いていないから必要定員を上回っている、と判断することは出来ない。同様に毎日消火活動で出動していない消防署員は不要だ、ということにはならない。必要とされるときに必要定数を確保しておくために消防署員は配置されている。学術研究のためには多様な学問・研究が必要だ。企業生産に直接役立たない哲学は不要だ、という官僚は哲学に無縁な人格形成時期に問題のある人だ。

 人は理系であれ何であれ、思考に言葉を用い論理を用いる。論理なき研究・開発はあり得ない。企業の要請する人材育成に高度な言語学者や文学者たちは「不要だ」といった短絡的な「経営効率」化から斬り捨ててしまって良いだろうか。
 いや、むしろ文科省に問いたい。大学は職業訓練機関になったのだろうかと。理系の学生だけが大学に必要なのだろうか、と。すべての分野の学者により構成される日本学術会議が文科省の通達に反対する意見表明をしたという。当然だ。文科省の薄っぺらな国立大学に対する「経営効率化」要請は薄っぺらな研究開発の成果をもたらすだけだ。短期的な目先の「効果」だけを追う国立大学改革は日本の文化科学の後退をもたらすだけだ。
 早急な欧米化を求めた明治政府が国立大学に多様な学部を設置した叡智を、なぜ現在の官僚や政治家たちは政策決定の滋養としないのだろうか。


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