歴史を現代の常識で評してはならない。

<国賓として来日したフィリピンのアキノ大統領を歓迎する天皇、皇后両陛下主催の宮中晩餐会(ばんさんかい)が3日夜、皇居・宮殿で開かれた。
 天皇陛下は冒頭のあいさつで、先の大戦時にフィリピンで多くの国民が犠牲となったことに触れ、「私ども日本人が深い痛恨の心と共に長く忘れてはならないことであり、戦後70年を迎える本年、犠牲者へ深く哀悼の意を表します」と述べられた。
 これに対し、アキノ大統領は「過去に経験した痛みや悲劇は、相互尊重や尊厳に根ざした関係構築に努めるという貴国の約束によって癒やされてきました」と英語でスピーチした>(以上「読売新聞」引用)

 天皇陛下のお言葉は極めて適切だ。「先の大戦は深い痛恨であり、犠牲者へ深く哀悼の意を表します」が歴史に対するすべてではないだろうか。
 当時のフィリピンで日本が戦ったのは植民地支配していた米軍であり、フィリピ名国民にとっては解放戦争というべきものだった。実際にフィリピンは戦後独立している。歴史に対しては政治的な発言は慎むべきであり、あくまでも事象として捉えるべきだ。

 それぞれの時代はそれぞれの時代の「常識」が支配している。常識とは権力を持つ多数が是認した支配原理だ。現代は民主主義こそが公正妥当な政治体制だという「常識」が国際社会を支配しているが、その常識が当てはまらない国も存在する。
 民主主義が適切に機能するためには情報の開示・共有と思想・信条の自由が保障されなければならない。もちろん報道の自由や表現の自由は思想・信条の自由を担保するものだ。そうした国民の「自由意志」が保障されなければ、それは単なる全体主義に陥ってしまう。

 中国や韓国程でないが、日本にもその傾向が著しい。なぜならマスメディアが報道で同一歩調を取るからだ。なぜマスメディア各社で、たとえばTPP参加に対して賛成や反対などと立場が異ならないのだろうか。概ねマスメディア各社は「賛成」の立場に立っている。
 70年の戦後談話騒動に関しても、概ね「反省」と「謝罪」を書き込むべきとの論を展開している。しかし天皇陛下の「お言葉」の範囲に止めるのが適切ではないだろうか。歴史に対して歴史的な言葉を表明する治政者の立場は軽軽なものであってはならない。

 実際に史料により検証されていない反日国家が主張する勢いに呑まれてはならないのはいうまでもないが、マスメディアが主張する「反省」や「謝罪」もお言葉の則を超えている。
 日本は日本の歴史上、欧米諸国のような「植民地」政策を他国民に対して行ったことはない。中国で上海事変に対応する形で内陸部深く進攻したのが侵略とみられるかもしれないが、それは当時の国際社会の常識に従ったまでだ。ただ、それでも植民地支配はしていない。当時の欧米列強の常識からいえば日本は極めて自制的な国家だったと誇るべきだ。

 中国は膨張主義を採り、軍事力を背景として海洋進出をしている。それは先の大戦により欧米列強では終焉した帝国主義だ。それに対して日本は国防の備えはすべきだが、過剰反応してはならない。過剰反応すれば戦争大好き米国の世界戦略に巻き込まれるだけだ。
 日本は日本の道を歩むべきだ。決して米国の後ろをついて米国の道を歩んではならない。中国の軍事的脅威を宣伝しているのはむしろ米国だ。日本が軍事的な脅威にさらされれば曝されるほど、日本は米国の属国化する。

 しかし中国に日本はもとより、米国と戦争する余力はない。中国は崩壊の危機を先送りするのに懸命だ。たとえば保有する戦闘航空機5000機というが、そのうち満足に飛べるのは何機あるだろうか。そして作戦に従事できる戦闘機は何機あるだろうか。さらに、日本の航空自衛隊機と空中戦を戦える戦闘機は何機あるだろうか。
 中国の膨大な数の人民解放軍は中国民を押さえつける軍に過ぎない。外国軍と戦う軍ではない。僅かに数十万の空・海軍が作戦に参加できるだけだ。「正体見たり枯れ尾花」が中国軍の実情だ。しかも戦争遂行すべき経済力は中国にない。開戦すれば中共政府は崩壊するだけだ。そうした実情を日本のマスメディアは一切伝えないで、軍事的脅威だけを宣伝している。そして米国のポチになれと国民世論を誘導している。それは日本の未来にとって極めて危険だ。


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