主客転倒政治が堂々とまかり通るこの国の民主主義の成熟度。

<自民党憲法改正推進本部の船田元本部長は18日のBS日テレ番組で、衆院憲法審査会について「しばらく休む予定だ」と述べ、当面開かない考えを明らかにした。船田氏は審査会の与党筆頭幹事。安倍政権が今国会成立を目指す安全保障関連法案の審議への影響を避ける意図がある。
 4日の審査会の参考人質疑で、自民党が推薦した憲法学者が集団的自衛権の行使容認を「憲法違反」と表明し、人選に当たった船田氏への批判が党内で強まっている。船田氏は、参考人の見解について「あまり調べていなかった。正直(人選の)ミスだった」と語った>(以上「時事通信」引用)

 自公与党政治家たちは「憲法解釈は我々政治家がやる」と息巻いて、「憲法学者が政治をやるわけではない」と憲法学者の憲法に対する見解を否定している。しかし、それは余りにも独善的な論理ではないだろうか。
 自民党憲法改正推進本部は何のために設けられたのか、設置の趣旨を忘れ去ったかのようだ。そもそも憲法は政治家の暴走を止めるために、政治行政権に一定の箍を嵌めるものだ。その箍が政治執行権にとって窮屈になったから箍の存在そのものを無視しようというのが憲法無視の「解釈改憲」だ。それに対して純粋学問的に圧倒的多数の憲法学者が「違憲だ」と異論を唱えれば、政治家は憲法学者の批判に従うのが立憲主義のあり方ではないだろうか。

 それを開き直ったかのように「副総裁たる私が違憲ではないというのだから、違憲ではない」と逆上せ上った言辞を高村氏などの政治家が吐くとは主客転倒もここに極まったというべきだろう。それが立憲主義の危機でなくしてなんだろうか。
 その政治家の逆上せ上った蛮行をマスメディアが口を極めて批判しない。この国の言論界の劣化もここに極まったというべきだろう。主権在民の基本理念を政治に求めるなら、「戦争法案」を争点に国民に信を問うべきとの論評がマスメディアから澎湃として湧き上がるべきだ。一度として安倍自公政権は正面から「解釈改憲」と「戦争法案」を争点として国民に信を問うたことがあっただろうか。

 政治の主役は国民だ。憲法に「主権在民」と書いてある。政治家が政治の主役で政治家の多数に国民は従うべきだ、とは書かれていない。国家は憲法により権力の運用を厳しく規定されている。それが立憲主義の基本原理だ。
 しかし安倍自公政権は憲法以外に政治の基本理念を置いているかのようだ。それを自民党は「米国政府」と置き換え、公明党は仏国でカルト認定されている「宗教」と置き換えれば、この暴走国会の主客転倒ぶりが容易に理解できる。安倍自公政権の政治家たちは憲法に政治の基本理念を当初から置いてないから「(政治家)副総裁たる私が違憲ではないというのだから合憲だ」と憲法を無視する言辞を吐いて立憲主義の基本理念に恥じないのだ。

 この「戦争法案」に自公政権が拠り所とする「米国教」というべき宗教が確立されている現実を目の当たりにして呆然とする。「米国教」も宗教であるから「思考停止」を自公政治家たちに強制する。自民党憲法改正審査会会長の船田氏が真っ当な憲法学者たちの「違憲」発言により窮地に陥っている、ということが日本の政治が窮地に陥っている危機を如実に示している。
 しかし、それなら審査会を開くのを止めよう、と主客転倒の結論を出すほど自民党政治家たちは劣化している。そして、それを危機感を持たず報道しないこの国のマスメディアも腐り切っているといわなければならない。権力に対して批判精神を忘れたマスメディアは権力の宣伝機関でしかない。先の大戦で果たして戦争協力機関を恥じたマスメディアは痛切に反省したはずではなかったか。しかしそれもGHQの指導によるもので、ついに日本のマスメディアは自律的に言論界を形成した経験を持たない「権力ムラ」の住人であり続けただけだったのか。いよいよ国民はマスメディアを捨ててネットの言論を信じるしかないことになる。それも不幸な主客転倒ではあるが。


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