「憲法よりも政治家が優位にある」が立憲主義なのか。

<自民党の高村正彦副総裁は、憲法9条と自衛権の関係に言及した1959年の最高裁砂川事件判決について「この法理を超えた解釈はできない」と指摘。同判決が認めた「自国の平和と安全を維持し、存立を全うするために必要な自衛の措置」は集団的自衛権と個別的自衛権を区別していないとしたうえで、「必要な措置にどのようなものがあるかは、国民の命と平和な暮らしを預かる政府、国会が不断に検討する必要がある」と強調した。

 高村氏とともに関連法案作りを主導した公明党の北側一雄副代表は「9条のもとで自衛の措置がどこまで許されるかが、昨年7月の閣議決定に至るまで与党協議の最大の論点だった」と述べ、集団的自衛権を行使できないという従来の憲法解釈の変更は、政府・与党による慎重な議論の結果だと説明した。

 これに対し、民主党の枝野幸男幹事長は「(砂川判決の)論点は個別的自衛権の合憲性であり、集団的自衛権の行使の可否はまったく問題になっていない」と主張。砂川判決後も政府が長年、集団的自衛権行使を認めてこなかったことを理由に、「判決は行使容認には到底結び付かない」と批判した。

 憲法学者3人の指摘をどう評価するかを巡っても与野党で意見が分かれた。高村氏は、54年の自衛隊創設当初もほとんどの憲法学者は違憲だと主張していたと指摘。「自衛隊や日米安全保障条約が抑止力として働き、平和と安全を維持してきた」と述べ、今回の法案も将来的に国民の支持を得られるという自信をにじませた。

 しかし、枝野氏は「既に確立した解釈との論理的整合性(があるかないか)は政治性を帯びる問題ではなく、専門家に委ねるべきだ」と反論。「専門家の指摘を無視して解釈を一方的に都合よく変更する姿勢は、法の支配とは対極そのものだ」と批判した。共産党の赤嶺政賢氏も「参考人の指摘に対して政府が9日に発表した見解はまったく反論になっていない」と述べ、関連法案の廃案を求めた>(以上「毎日新聞」引用)

 高村副総裁は自衛隊合憲を認めた最高裁砂川判決を根拠として、「戦争法案」も合憲だと強弁しているが、砂川判決そのものが米国への強い配慮があったとする証言があるほどのものだ。つまり最高裁は違憲とした地裁判決を覆すように求められ、それに応じたというものだ。
 しかし、最高裁判所の名誉にかけて、そのような不節操がなかったとしても、判決は「自衛」のための武力集団の存在を認めたものでしかない。一人前の軍隊として友軍のためなら後方支援(現代戦争は前線なき戦争で「後方」なる概念すら無意味だ)なら認められるとは戦争の実態を知らない者の戯言だ。

 さらに高村氏は政治家が合憲と判断すれば良い、と発言したようだが、日本国憲法では憲法に政府も政治家も従う義務があると憲法第99条に定めてある。憲法学者が違憲だといえばその法案を速やかに撤回すべきが立憲主義国家では当たり前のことではないだろうか。
 たとえ「戦争法案」の成立を強行しても、ゴマンと違憲審査訴訟が提訴されて、安倍自公政権はたちまち立ち行かなくなるだろう。全国の法曹界や憲法学者がそうした準備に入っているという。「戦争法」に基づく各種施行令が審議される段階には中々ならないのではないだろうか。

 日本に集団的自衛権が必要なのなら、なぜ憲法改正して普通の中学生が読んでも文学的な「解釈」をしないでも、普通に文言から読み取れモノにしないのだろうか。時の政権が「解釈」すれば憲法規定はどうにでもなる、というのは暴論でしかない。高村氏は弁護士資格を有するようだが、彼の法に対する忠誠心とはいかなるものなのだろうか。
 万が一にも高村氏の認識として、健常な殺人犯でも「精神耗弱」として無罪か減刑を求めるのが弁護士だとしたら、それは誤っている。罪は罪として法に照らして厳正な刑の適用を求めるのが弁護士のあり方ではないだろうか。政治家が考えて正しいと思う解釈が正しいのであって、憲法学者の見解や憲法の文言に縛られるものではない、というのは人治国家そのもので、ヒトラーが民主的手続きにより政権を獲得した手法そのものだ。極めて危険な考え方だと批判するしかない。


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