「私」と「公」との観念。

 私と公の概念は時代とともに変わる。江戸時代の学問の多くは「公」だった。なぜなら学問は特別な技能の一つと考えられ、砲術家は砲術を能くすることにより君主に仕えた。兵法家は兵法学問を能くすることにより君主に仕えた。
 そうした意味から学問は家学であり公の存在だった。ただ、すべてが「君主」のためという弊害があった。それゆえ門外不出とされ、一子相伝となり進歩とは無縁のものとなった。

 しかし学問が公であることに変わりない。現代では国民の知的水準は国力を測るバロメータの一つになっている。科学技術や社会科学が進まなければ国民の生活水準の向上も社会的許容量も拡大されない。
 国民の学問は時代が変わろうと「公」である。確かに学問をするのは個人だが、個々人が学問を積めば国の許容度が向上し、誰もが住みやすい社会となる。それゆえ、学問の場は自由の府でなければならない。国家権力が学問を歪めることは国の未来を歪めることになる。

 日本の多くの奨学金制度は実は貸付制度に他ならない。奨学を本気で国策とするのなら給付型の奨学金にすべきだ。いや、それよりも前に国公立は全て無料とすべきだ。貧困家庭の子供でも能力さえあれば誰でも学べる環境を作るべきだ。
 学問は「公」である。個々人の社会的なツールの一つではないかと批判する人がいようと、国民の全員が指導者になれないのは明白であり、それならより適性のある人が指導者になるべきだろう。学問を積んだ人が学識により社会的な地位を築こうと、それもまた「公」であり、「公」により学問を「積させて戴いた」という自覚が個々人にあれば何よりではないだろうか。

 現行の大学助成金が中途半端で、大学生が「公」により学問を積させて戴いた、との自覚を持つに到ってないのはこの国の不幸だ。もちろん、私学は私学として自由に「経営」なされば良い。しかし少なくとも国公立は「公」の機関が「公」に役立つ人材育成の学問を積むために設立されたものだ。
 よって、国公立大学は最低でも無料とすべきだ。その上で給付型の奨学金を支給すべきだ。人材は国の宝だ。子育ては学問を授けることにより完結する。家庭と国と一緒になって未来の日本を支える人材を育成すべきだ。


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