ゆとり教育は何をもたらしたのか、-すぐ切れる堪え性のない大人たち。

 ゆとり教育は一体何をもたらしたのだろうか、と思わず首を傾げてしまう事件が起こった。< 14日午後4時過ぎ、東京都福生市の公園で、「子どもが絡まれた」と110番通報があった。同市の小学5年の男児(11)が男に踏まれて大けがを負ったといい、福生署は15日、同市の福祉作業員の男(21)を傷害容疑で逮捕した。容疑を認めているという>(<>内「朝日新聞デジタル」引用)
 自然や他人を思いやる豊かな心や、多様的な個性の発揮などという掛け声で始まった「ゆとり教育」だったが、その間にも登校しない子供たちや引き籠りなどの生徒たちはいた。子供が成長するうえで多様な価値観を持つように指導することは確かに必要かもしれないが、その前に社会的存在としての一人前の大人になる準備期間だという認識を児童・生徒を取りまく教育者や家庭は持っていたのかが問われるのではないだろうか。

 他者を思いやる心とは「己の欲せざること人に施すこと勿れ」という論語の精神と何ら変わらない。現代的な「ゆとり教育」が競争を否定していたわけではないだろうが、現代社会は望むと望まざるとにかかわらず熾烈な競争社会だ。
 そうした現実を子供たちに教えないで、前途洋々たる「可能性の満ちた」存在である、と子供たちに特別な存在感を抱かさることが果たして「前途洋々たる未来」を約束することだろうか。もしかすると、それは見果てぬ夢、という挫折感だけを与える麻薬のようなものではないだろうか。

 熾烈な競争社会だということは「お笑い芸人」の世界でも年に一度か開催されるお笑い芸人たちによる勝ち抜き戦にも表れている。自由社会で保証されているのは「能力による機会均等」であって、機会均等の平等性ではない。
 大学入試でも能力を測る手段であって、大学の求める能力のない者はその大学に入学許可を与えられない。しかし大学入学する能力がその人間の能力のすべてでないことはいうまでもない。多様な生き方を保障する社会でなければならないが、日本社会は新卒で入社してしくじると、新しく就職した会社で再び正社員になることはまず不可能に近い。そうした一方通行の社会が社会問題を生じさせる元凶の一つとなっていることも確かだろう。

 11才の子供を踏みつけて骨折させた21才の男がどのような人間でどのような背景を持つのか知らない。しかしそこに窺えるのは絶対的強者が弱者を痛めつけて優越感を抱くという歪んだ人間性だ。
 彼らはゆとり教育により様々な価値観や生き方を学んだはずだ。しかし実際にやっていることはかくも無残な非人道的な自己満足に過ぎない。人を教育して一人前に育て上げるには一度型に嵌めて徹底した人格教育を施さなければダメなのではないかと思わざるを得ない。

 あるいは全員が進級する現行の教育制度が間違っているのかも知れない。教育の到達度によって進級する制度に改めることも必要ではないだろうか。分数も解らない中学生がいても良いかも知れないが、本人にとって数学の時間は拷問のようなものだろう。
 安倍政権はゆとり教育の反省から道徳教育を強化するといっているが、むしろ「ゆとり」が必要なのは教育する側ではないだろうか。幅広い可能性や個々の人間性を備えた子供たちを教育するには画一的な対処で出来ないことは改めて指摘するまでもないだろう。


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