急いだ知事判断--首長は有権者の声を聴くべきだ。

<原子力規制委員会の審査が終わっていない中、伊藤祐一郎鹿児島県知事が7日、九州電力川内(せんだい)原発1、2号機の再稼働に同意した。知事が手続きを急いだ背景には、立地自治体以外に再稼働判断への関与を求める声の広がりや、来春の統一選への影響を懸念した思惑が透けて見える>(以上『毎日新聞』引用)

 伊藤知事が自治省出身で若いころから常々「国のエネルギー問題を考えるなら原発は必要だ」と発言していたようだ。その信念は福一原発の放射能環境汚染事故を見ても揺るぎなかったようだ。
 しかし地方自治体の首長は自身の信念に従うよりも、地域の有権者の声を広く聴くべきではないだろうか。自公政権に配慮したとの記事も見られるのは彼の行動原理にある種の卑しさを感じさせられる。少々長いが『毎日新聞』の記事の続きを引用しよう。
��「11月5日に臨時議会を招集したい」。薩摩川内市が再稼働に同意する前の10月半ば、知事から池畑憲一議長に打診があった。すでに議会行事が複数重なっていたため、議長は「議員の都合を考えると無理」と押し返した。だが知事は強硬だった。直後に再び打診があり、議長は結局承諾する。1カ月待てば定例の12月議会もある。野党は「なぜ急ぐのか」と反発した。
 自治省(現総務省)出身で、若いころに出向した石川県で北陸電力志賀原発の立地対策を担当したこともある知事はかねて、「わが国のエネルギー事情を考えると原発は必要」という発言を繰り返してきた。福島第1原発事故後も持論は変わらず、2012年の知事選では川内原発再稼働を訴え、3選を果たした。
 福島から遠く大きな反対運動もなかった川内原発の再稼働は当初、「無風」とみられていた。しかし、再稼働が現実味を帯びるにつれ、30キロ圏の周辺自治体議会で再稼働に反対する意見書が可決され、知事が「県と薩摩川内市だけで足りる」としている再稼働への同意権限を広げるよう求める声が上がるようになった。来春の統一選を控える県議の間でも選挙への影響を懸念する声が出始めた。
 知事がお膳立てしたのは臨時議会の日程だけではない。9月10日に新規制基準に合格すると、国の責任を文書で明確化するよう政府に要請。臨時議会直前には、知事の意向を受けた九電社長が原発周辺8市町長と面会し、反発を抑えた>

 福一原発事故により原発は広範囲に深刻な放射能汚染を伴う事故を起こすものだという常識的な考えが広く国民に認められた。それまでは「絶対」に原発は放射能漏れ事故を起こさない、などという非常識な安全神話が一種の宗教のように国民に信仰されていた。
 宗教のように、といったのは「原発の安全神話」が一切の批判を拒否した思考停止状態という側面は全く宗教そのものと同質だからだ。川内原発に関して薩摩川内市や鹿児島県の首長には依然として安全信仰は生きていた。しかしそれは首長の個人的な思惑に過ぎない。少なくとも薩摩川内市は市民投票を実施して、広く市民の声を聴いても良かったのではないだろうか。鹿児島県知事も来年春の統一地方選挙の争点の一つに「川内原発再稼働の是非」を上げて、広く県民の意思を問うてから、それを参考にして知事判断を下しても良かったのではないだろうか。

 首長が政権寄りに暴走するのは仲井真沖縄県知事に始まったわけではないが、最近そうした行動が多過ぎる。それに対して「仕方ないじゃないの」という現実肯定派の国民が増えたのも事実だ。いや、元々日本国民はそうした「長いものに巻かれる」封建制度の悪しき遺産ともいうべき習癖があった。
 しかし「仕方ないじゃないの」という考え方は捨てた方が良い。原発や米軍基地は自分一代の「仕方ないじゃないの」という後ろ向きの受忍で終わることではない。子孫に負の遺産を残すことを考えれば決然として拒否すべきだろう。そして教訓とすべきは国の意向に従順で自己保身の首長ではなく、地域住民の安全と福祉を真摯に考え身を挺してでも守る首長を選挙で選ばないとならないということだ。


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