アベノミクスとは成功しても消費増税しなければならない欠陥政策なのか。

 来年度一般会計予算の概算は対前年増を組み続けてついに100兆円を超えたが、政治家や官僚たちは国民負担に限界はないとでも考えているのだろうか。経済活動により日本が生み出すGDPは年間500兆円程度に過ぎない。その20%に及ぶ一般会計予算とは余りに多くないだろうか。
 国民負担は税だけではなく、他にも保険料と称する社会保障費や個人負担と称する医療費等の負担もある。江戸時代の農民は四公六民が原則だが実際は五公五民だったようだが、それが限界で、それを超えると農民一揆が頻発した。現代日本社会の国民負担は「公的負担割合」として統計資料が出されているが、それによると41%ほどになっている。まだまだ国民は余裕があると官僚や機関紙のマスメディアは国民に刷り込んでいるが、それは平均的な公的負担率であって、貧困層ほど負担は厳しいものになっている。

 たとえば最低の生活に必要な金額が一人当たり10だとした場合、12稼ぐ人が2割の負担を強いられると2.4となり10-2.4=9.6となって生活の維持が困難になる。しかしその倍の20稼ぐ人が公的負担を4割負担したとしても8で、20-8=12となって生活は維持できる。
 貧困層に対して公的負担を軽減すべきという根拠はそこにある。しかし消費税はすべての消費に対して「平等に」8%の負担が課される。貧困層に対して厳しい税制だという批判は当然のことだ。

 日本は富裕層に対する所得税の「超過累進税率」を緩和してきた。その理由は富裕層に課税すると海外へ流出してしまうというものだった。しかし現行の所得税最高税率45%でも住民票を海外へ移して、出稼ぎ的に日本国内で暮らしている「富裕層」は存在する。
 高名な「政府委員」もそうだし仄聞している。彼らは蓄財に余念がなく、日本国に奉仕しようとは考えていないかのようだ。彼らにとって重要なのは日本の文化や慣習ではなく、日本の社会制度がカネの稼げるものなのか否かというだけのようだ。その掛け声が「規制緩和」であり「グローバル化」だ。

 しかし日本国内に貼りついて暮らすしかない一般国民にとって、必要なのは「国民の生活が第一」の政治だ。外資導入を促進する政策やグローバル化は投機家たちが稼ぐための仕組みでしかない。
 しかし本当に外資導入が必要なのだろうか。明治日本は国内産業資本の形成に血眼になった。伊藤博文は明治4年に仏国から日本政府に製糸場の共同投資を持ち掛けられて即座に断っている。ただし、仏国の技師の派遣を要請して、日本の官業として富岡製糸場を仏国の技師の指導により建設した。それが世界遺産に指定されたのは記憶に新しいだろう。当時30前の伊藤博文ですら欧米資本を国内に導入すれば、それの保護と確保を口実として軍隊が進出して来るのを知っていた。だから日本を自主独立国家として維持するためには日本国の産業資本形成が急いだのだ。

 TPPやグローバル化は果たして日本の未来にとって正しい選択なのだろうか。企業が利益を上げる仕組みであることは違いないが、国民生活と日本の国家主権がどうなるかが問題ではないだろうか。
 日本の税制に対して「国際的な信認」を口にする輩は本当に増税すれば「国際的な信認」が得られると考えているのだろうか。重要なのは消費税率を上げることではなく、財政規律を歳入歳出の両面から厳しく律することではないだろうか。

 そして何よりも経済成長を明確に掲げて、政策を景気改善に集中することではないだろうか。経済成長すれば国民負担増を図らなくても税収は自然増となる。当然経済成長率の範囲内でインフレが起こっても国民生活を苦しくしない。好況はインフレを伴うものだが、そのインフレを上回る個人所得増があれば問題ない。
 国民から「取ろう」と図る政府は国民のとって良い政府なのだろうか。アベノミクスが成功しても確実に消費増税するというのなら、アベノミクスとは一体何なのかと問わなければならない。そうした簡単な理屈を、日本国民は理解できないほど財務官僚とその広報機関たるマスメディアに洗脳されているのだろうか。

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