今年のノーベル平和賞の意義は大きい。

 今年のノーベル平和賞は二人が受賞し、その一人は17才のパキスタン女性マララ・ユリラザイ氏に決まった。マララ女史は父親が経営するパキスタンの私立学校に通っていたが、イスラム教タリバンが女性の教育を禁じる声明を出したことに反対し、殺害予告を受けても尚女性の教育の必要性を訴えたためタリバンにより脳を撃ち抜かれた。
 一時は命の危険があったが英国で手術を受けて死の危機から恢復し、今では英国の高校に通うほどになっている。そして自らの身の危険を顧みずに「女性の教育の必要性」を訴え続けている。

 マララ女史は訴える。「一人の教師、一人の生徒、一冊の本と一本の鉛筆が女性の地位を向上させる」と。教育こそが女性の地位向上と不当な差別に対抗する手段だというのだ。
 しかし、イスラム教にそうした「女性蔑視」の教理があるとしたら問題だ。タリバンは一体何に基づいて女性の身に纏う装束に黒尽くめと顔を隠すことを強要し、教育の機会を奪おうとしているのだろうか。イスラム教世界はタリバンの現世紀とは思えない中世的な暗黒社会をこの時代でも女性に強要しようというのだろうか。それは本当にイスラム教の教義にあるのだろうか。

 豚肉を口にしてはいけない、というのはイスラム教の忌避として広く知られている。それすらもおかしなことだと思うが、決まりだというのなら他者にそれほど深刻な影響を与えるものではないからイスラム教の独自性として多くの国は受け容れている。
 しかし女性の教育や装束に関する決まりに関してはなかなか理解しがたいし受け容れることは出来ない。それは女性を蔑視することの合理性が見当たらないからだ。同じ人間として性による差別は容認できない。男性であるだけで優越した立場を維持する社会は歪んでいるとしか思えない。

 しかし私は日本で私と同等な価値観の人たちの中でそう思っているのに対して、マララ女史はイスラム教社会のパキスタンで、イスラム原理主義といわれるタリバンのテロが頻発している社会で堂々と女性の権利獲得には「教育が必要だ」と訴え続けた。
 価値観の異なる他者を受け容れる社会は民主主義の基本だ。金子みすずの詩ではないが「みんな違って、みんないい」(わたしと小鳥とすずと)という一節がある。みんな違ってみんないい、という発想はタリバンなどのテロ集団とは遠く無縁なものだ。しかし社会には様々な人たちが存在する。自分の存在を許容して欲しいなら、それが犯罪性を持たない限り、自分と異なる人たちの存在も許容しなければならない。

 イスラム教の社会で生きる多くの女性は教育の機会や社会進出の機会を奪われて不当な人権抑圧状態に置かれているとしたら世界はイスラム教社会の誤りを糾弾すべきだ。たとえば四人まで妻を持っても良いという決まりを持っている社会には、女性が四人まで夫を持っても良いと認めることだと教えなければならない。
 自分たちが行っている不条理を認識するには立場を置き換えてみることだ。男性優位の社会通念や慣習がまだまだ多く日本の社会にも存在する。かつて雷鳥が「女性は太陽だ」と訴えた明治時代の社会は現代のタリバンたちと大して変わらなかった。いかにして日本で女性が不当に抑圧されている権利を獲得していったかをマララ女史の活動と重ね合わせて考えさせられる。ノーベル平和賞がなぜ若い女性人権活動家に与えられたか、その意義は大きい。「みんな違って みんないい」を認める社会は平和な民主主義社会だからだ。


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