自然への畏敬の念を忘れてはならない。

 つい先日沢を横切っていた京大のパーティの2人が遭難して死亡したというのにまたか、という気持ちだ。<6日、岐阜県高山市のキャンプ場を訪れた男女5人が「沢登りに行く」と言って出かけたまま連絡が取れなくなり、警察は遭難したおそれもあるとして7日朝から捜索することにしています>(以上『NHKネット』より)
 当時高山地方は雨が降っていたという。沢は上流に雨が降ればアッという間に増水し、濁流が荒れ狂う。元々そうした場所だから気が育たず草も根こそぎ持ち去られるから何もない石や岩の茫々たる『沢』を形成しているのだ。

 キャンプ場として『沢』の河原を利用するのは空模様と相談してのことだ。雨が降りそうなら河原にテントを張るべきではない。沢登も晴天下での楽しみに限定されたものだ。少しでも雨が落ちてくれば直ちに沢から上がれて離れるべきだ。
 車でかなり山奥のポイントまで行けるようになり登山は手軽なスポーツになったが、本質的に山が手軽な存在に変化したわけではない。山は山として畏敬すべき存在だ。

 畏敬すべき存在だから登頂した際の達成感や壮大なパノラマに魅せられて病み付きとなるのだろう。しかし、それは病み付きに他ならない。
 自然が厳しければ厳しいだけ、人は魅せられるものだ。登山ルートや登坂コースが困難を伴えば伴うほど、人は魅入られる。しかし、それはすべて自分自身の能力と体力を知った上での楽しみ方でなければならない。

 車でかなり高地のポイントまで行けるようになり、自然を楽しむ方により慎重な判断が求められるようになっている。行くべきか引き返すべきか、つい近くのポイントから出発しただけといっても、そこは既に高難度の高山だということを忘れてはならない。
 山の麓から登坂したと考えれば、車に乗って登っただけ自然への畏敬の念が薄れてはいないだろうか。手軽に行けることで自然への畏敬の念まで手軽なハイキング感覚により希薄になってはいないだろうか。自然の懐で過ごすには自然への畏敬の念を忘れてはならない。


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