1%のための政策が優先される現代。

 今日(8/24)の読売新聞朝刊一面と二面に「地球を読む」などという御大層な論評欄に「富の集中・活力なき経済」という見出し論評が掲載されている。内容は富の一極集中と庶民の貧困化を労働分配率の低下と資本の蓄積から説明している。
 しかし、そんなことは今更論評されることでもない。国民は肌で知っている。派遣業法が大幅緩和された瞬間から終身雇用制度が崩壊して労働分配率が低下されることは予見されていた。しかし政府委員から大臣になった竹中氏は「経済の活性化と自由化」を旗印に新自由主義化を日本国内の諸制度改革を通じて強力に推進した。

 その結果が企業内部留保は250兆円を超える資本蓄積が進んでいるにもかかわらず、勤労者平均年収は減少し続けるという現象が進行した。国民は押し並べて貧乏になったが、一部の人たちだけが富を独占的に手にした。しかも超過累進所得税制が改悪されていたため、富裕層はより少ない税負担で優雅な金満家暮らしを満喫している。
 なぜそうしたことが続くのか。理由は簡単だ。新自由主義を主要政策とする自公が政権を取っているからだ。なぜ99%を占める国民の声が政治に反映されないのか。それは有権者が自分たちの暮らしを守らない政治家を選択しているからだ。

 そうしたことが民主主義で有り得るのか、という懐疑の声が上がるだろう。しかし現実はそうなっている。自公政権は「限定正社員」を成立させて正社員の派遣社員化を企んでいるし、「残業代ゼロ法」を成立させて労働者をナンチャッテ管理職に登用して搾り取ろうとしているし、「消費増税」により国民を痛めつけて「法人減税」により1%の人たちの懐をさらに潤そうとしている。それでも安倍政権は高い支持率を得ている、という。信じられないことだ。
 民主主義の国家は自動的に国民大衆の意思によって政策選択がなされる、と考えるのは幻想だ。選挙で必ずしも国民大衆に奉仕する候補者が当選するとは限らない。その格好の例が米国大統領選挙だ。

 選挙費用に数千億円も必要とする米国大統領選挙が国民大衆の意思を代表する候補者選出方法として適切なものか、という検証をすべきだろう。ワンスポット百万円ほどのテレビスポットコマーシャルを連日機関銃のように打ち続けて国民世論を喚起する選挙は壮大な集金力戦争だ。当選のためには資金力の前に跪くしかない。
 米国政界の裏側で投機家たちや石油メジャーや穀物メジャーたちが蠢くのはご承知の通りだ。それは彼らに正義があるからではなく、資金力があるからだ。

 日本の政界もそれと似たような構造になっている。だから企業献金は全面禁止とし、個人献金も上限を設けようとした。そのための政党助成金だったはずだが、いつの間にかザル法にされ骨抜きにされている。
 前記に挙げた政策を見るまでもなく、自公政権は1%に奉仕する政権であることは明らかだ。「外人労働移民法」などはその最たるものだろう。低賃金労働者の大量移民は貧困の輸入に他ならない。企業は利益を上げて、国民大衆はさらなる貧困に陥る。

 それでも安倍自公政権は国民多数から支持を得ているのだろうか。この国はマトモな民主主義国家なのか、それとも米国型集金政党が世論操作する国家なのか。
 国民世論操作にかかわるテレビ局などの職員年収が勤労者平均年収の2倍から3倍以上あることも、この国のマスメディアが口先では何とか言いながら現状維持を擁護し、新自由的政策を推進してきたのも頷けるところだ。

 大企業や富裕層による大衆支配は確実に進んでいる。彼らは既得権益を守るために日々必死になって努力している。そして政治家たちを献金などで手懐け、自分たちのための政策を実施させる。
 なぜ生活できない国民年金を放置して、高額共済年金をいつまでも存続させるのか。官僚たちや公務員も1%に奉仕する奉仕員だし、彼らの報酬は税金から支払われ、1%の懐が痛むわけではない。国庫が枯渇すれば税を上げて国民から搾り取れば良いだけだと考えている。こうした現代に終止符を打つ政治家を、国民は本気で支持し支援しなければならない。


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