本当信じて連絡してよかったと思います。

 伊藤博文の再評価を願う。芝居やドラマに登場する伊藤博文は「チャラチャラした人たらし」という軽いイメージで描かれる場合が多い。実在した伊藤博文がそうした人物なら、生きて明治を迎えることはできなかっただろう。
 彼は高杉晋作より二年遅れて農家・林十蔵・琴の一人息子としてこの世に生を受けた。天保12年9月2日(旧暦)のことだ。明治維新を迎える24年前のことであり、血気盛んな長州人の多くが命を落とした世代に当たる。

 しかも長州藩では萩から遠い周防の国束荷村野尻(現光市束荷)の自作農の倅に生まれた者が明治の元勲になるためには様々な僥倖に巡り合ったためだが、その僥倖を引き寄せたのも伊藤博文の努力の賜物だった。
 周防国の生まれの者で維新後に政府要人となったものは伊藤博文だけだ。それは彼が6歳の折に畔頭役(庄屋に次ぐ村の役目で、年貢米の取り纏めなどを行う)を務めていた父親が引負(年貢米不足)を背負い込んだため、ついに田畑や屋敷を売り払う羽目に陥った。引負を背負い込む羽目になったのを十蔵が『放埓な性格だったため』とする書もあるが、萩へ移り住んだ十蔵の精勤ぶりからはそうした性格はうかがえない。むしろ人の好さから各農家が供出した年貢の計量を一升枡の『切り盛り一杯』とするところ、一握りずつ目減りさせられていれば総量では大きな不足となる。そのようにして十蔵は引負を背負い込んだものと思われる。

 いわば夜逃げ同然に束荷村から萩の円正寺で住職になっていた妻の叔父を頼って萩へ出たのが林利助(当時の伊藤博文の名)の第一の僥倖だった。身分制度の厳しい江戸時代で住職になるのは農家の次・三男にとっては格別な出世であった。恵運(住職の名)が傑出した能力の持ち主であったと同時に研鑽を惜しまぬ人物だったと思われる。
 林利助は恵運の許で一年間、みっちりと四書五経の学問を仕込まれる。その後は恵運の勧めで萩でも名高い私塾へ通わされた。いわば住職により農家の子弟の学問ではなく武家の学問の手解きを受けたのが第二の僥倖だった。

 当時の長州藩は熱病のような学問熱が沸き起こっていた。当時の藩主は毛利敬親といい天保8年に僅か18歳の本流でない青年が押し付けられるようにして藩主に就いた。長州藩は負債総額銀8万貫という財政破綻の瀬戸際にあり、それは長州藩36万9千石の年貢収入37年分に相当した。
 いわば長州藩の藩主は財政再建を運命づけられた『迷惑役』に過ぎなかったが、毛利敬親は藩主に就任するや当時江戸屋敷で相談役に退いていた56歳の村田清風を政務役(重役)に抜擢した。

 村田清風は禄高僅か25石の郡奉行格の下級武士の出自だった。郡奉行になって赴任した場合に足高25石が加算されて50石となる。しかし勉学に励んだ村田清風は藩校明倫館の教授となり教鞭を執っていた。その村田清風が一種の定年により江戸当役(相談役)という窓際役に退いてから藩財政立て直しの建白書を提出していた。
 しかし藩重役たちは誰も一顧だにせず未決裁文書として埃に塗れていた。その建白書に目を通した毛利敬親が村田清風を突如として登用し藩政改革に乗り出した。林利助が萩に出た当時は清風の改革が軌道に乗り藩政が一新されていた。そして下級武士たちが目の色を変えて彼らの子弟に学問をさせていた。『学問があれば政務役にも登用される』という格好の先例が村田清風だった。当時の長州藩は熱病のような学問熱が藩の隅々にまで伝染していた。

ーー心静かに書物を紐解き、ブ厚い本を読んで頂きたい。『蒼穹の涯』という伊藤博文の誕生から明治4年までを描いた小説がネットの『小説家になろう』にアップしてある。原稿800枚を超える長編だが、タブレットなどで一読して頂きたい。
 イメージだけで歴史上の人物を判断してはならない。なぜなら現代の人物評は必ず『現代』という色眼鏡を通して歴史上の人物を観ているからだ。出来るだけ史実に忠実に人物像を著述した半生記を読むべきだ。伊藤博文が現在の日韓関係から不当に貶められているのを残念に思う。彼の偉大さを現代を生きる日本国民は再評価すべきだ。


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