帰郷した安倍晋三氏が高杉晋作の墓所を訪れ「志が定まった」と述べたようだが。

 帰郷した安倍晋三氏が高杉晋作の墓所の『東行庵』を訪れ「志が定まった」と述べたようだが、高杉晋作に自身をなぞらえたとすれば笑止千万だ。
 高杉晋作が歴史に名を遺したのは元治元年12月14日の「功山寺」決起による。当時の長州藩は蛤御門の変で敗れ四ヶ国連合艦隊の砲撃により関門海峡の砲台はもとより馬関の市街地を破壊され、四面楚歌の窮地に陥っていた。しかも11月には長州藩を討とうとする幕府軍が藩境に迫り、それまで藩政を主導してきた「尊攘派」はことごとく失脚し、椋棃籐太を首魁とする「幕府恭順派」が藩政を牛耳った。

 「幕府恭順派」はまず恭順の意を表すために蛤御門へ出陣した三家老に切腹を命じ、軍を率いた四参謀を牢獄から引き出して斬首した。そして「尊攘派」と目されていた七人の政務役を捕えた。
 すでに「尊攘派」の中心勢力だった松陰の弟子たちの多くは京で散っていた。松下村塾四天王と謳われた者のうち吉田年麿は池田屋事件で新選組に斬られ、入江九一と久坂玄瑞は蛤御門の変で討ち死にしていた。他にも寺島忠三郎や大勢の松陰の弟子たちも久坂玄瑞と運命を共にした。

 「幕府恭順派」は蛤御門の変で主力となった奇兵隊や諸隊を解散させるべく策していた。それに対して奇兵隊総督の赤根武人は存続を願って萩政府に懇願していた。そうした時期に、高杉晋作は逃亡先から馬関へ帰ってきた。
 萩の「幕府恭順派」に牛耳られている勢力を一掃しなければ奇兵隊をはじめ諸隊は解散させられ、主だった者は首を刎ねられるぞ、と説いた。しかし萩政府と存続を願って折衝している赤根武人は高杉晋作に耳を貸さなかった。

 このままでは長州藩は俗論派(高杉晋作は自分たちを「正義派」と呼び、椋棃籐太たち「幕府恭順派」を「俗論派」と呼んだ)たちの思うがままにされてしまう。それでは「尊攘」に命を賭した松陰先生の遺志に沿うことは叶わない、と意を決して決起することを奇兵隊や諸隊に伝えた。
 しかしやって来たのは他藩の脱藩浪士からなる「遊撃隊」の一部と伊藤俊輔(後の伊藤博文)率いる力士隊の合わせて八十余名でしかなかった。高杉晋作はその兵を率いて雪の「功山寺」へ向かい、そこに軟禁されていた三條實美に「これより長州男児の肝っ玉をお見せ致す」と叫んで馬関の会所を襲ったのを皮切りに翌慶応元年の内訌戦へと突き進んだ。

 高杉晋作に戦略家として勝算があったのか疑わしい。しかし高杉晋作が決起したことにより奇兵隊をはじめ諸隊も立たざるを得なくなり、赤根武人もいやいやながらも兵を馬関と萩との中間地点の絵堂まで進めた。そこで突如として赤根武人は九州へ逃亡し、代わって奇兵隊総督となったのは山縣狂介(後の山形有朋)だった。
 高杉晋作は関門海峡を挟んで滞陣する幕府軍に備えて馬関から離れるわけにはいかず、軍資金や糧秣の調達に伊藤俊輔と品川弥二郎を近郷から吉敷郡の遠隔地まで派遣した。

 萩政府は約三千の藩正規軍を三手に分けて千で萩を守り、千を山陰の海岸線を馬関へ向かわせ、残りの千を内陸の絵堂経由で馬関へ向かわせた。そうした萩政府の愚策が山縣狂介に幸いした。
 奇兵隊をはじめとする山縣の軍は約三百。しかし彼らはゲベール銃を装備していた。萩政府軍が火縄銃だったのとは雲泥の差だった。高杉晋作が奇兵隊を創設した折、百姓町人からなる奇兵隊に槍刀を持たせたところでものの役には立たないだろう。それなら弾を込めて狙いを定め銃刃を引くだけの洋式銃を持たせるしかあるまい、との判断から藩に掛け合って装備させたものだった。村田蔵六は火縄銃十丁に相当する、と洋式銃を評価していた。

 山縣率いる軍勢は絵堂、大田、呑み水峠、と三度戦い三度とも数に勝る萩正規軍を撃破した。萩政府の恭順の意を受け入れた幕府軍が引き上げると、高杉晋作は馬関守備隊200を率いて山縣軍と合流し、赤村に陣を構えていた萩政府軍を急襲して完勝した。これで長州藩の内訌戦は終了した。
 これ以後、長州藩は討幕へと一丸となって進むことになる。明治維新は高杉晋作の功山寺決起から始まったといって良いだろう。

 ただ高杉晋作は山口に藩庁が移されてからの御前会議で毛利敬親が藩士たちに「今後の政体はどうあるべきか」と意見を徴した際に「大割拠」と提唱した。それが彼の限界だった。「大割拠」とは長州藩が「富国強兵」により大きく屹立して日本全体を引っ張っていく、というものだ。
 それに対して伊藤俊輔は意見を求められて「大政の統一」を具申した。つまり日本が三百諸侯に分かれていては欧米列強に畢竟は後れを取ってしまう。欧米列強のように領地や兵馬を統一した国家の統帥権の下に置くべきと説いたことになり、「藩をなくせ」と藩主の前で具申したことになる。権前会議に参集した人たちは伊藤が何を言っているのか理解しなかった。理解しなかったから伊藤俊輔は首を刎ねられずに済んだ。

 しかし高杉晋作は伊藤俊輔の先見性に括目し「僕も西洋へ行きたいから道案内をしてくれ」と持ち掛けている。伊藤俊輔の先見性は英国留学によるものだろう、と看破していた。
 安倍氏に自分の考えを超えるモノを評価し、それを貪欲に取り入れようとする向学心があるだろうか。頑なまでの強い思い込みと、他人の意見に耳を貸さない独りよがりが見えるが、広く民に意見を求め自分の考えを絶えず検証する姿勢は微塵も見られない。彼は高杉晋作の墓所で「志が定まった」と述べたが、彼の志とは一体いかなるものだろうか。

 後の初代総理大臣・伊藤俊輔は命を賭して高杉晋作の「功山寺決起」へ馳せ参じた。そうした心意気が安倍氏にあるだろうか。


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